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月夜の湖 2

 どうして? 何故だ。もうそんな噂が宮中に立っているなんて……やはり女子の姿で牛車に揺られ帝の元へ通うなんて無理があったのだ。皆が噂する『月夜姫』とは、まさか……俺のことなのか。  はっ!どこまでも狂っている!  男の身でありながら、姫だなどと。  空しい……  悔し涙を目尻に浮かべながら、宮中を後にした。 「洋月の君様……今宵はどちらへ参りますか」  それでも牛車の牛を引く牛飼童に尋ねられた時に、無意識に「左大臣邸へ」と答えてしまった。きっと先ほど久しぶりに丈の中将と話したせいだ。あれ以来……久しぶりにまともに顔を合わせた。  あの人は変わっていなかった。  あの人が俺のことを見守る優しい眼差し。 あの人が俺に触れる温かい温もり。  本当はもっと傍にいたかった。だが怖かった。嫌われてしまうかもと思うと、すべてのことに自信がなくなっていく。丈の中将はあの日、俺の首筋に付けられた無数の愛撫の印に動揺していた。俺も浅はかだったのだ。あの人の印さえ守ることが出来れば、牡丹にいくら付けられても構わないと思うなんて。あの人は他の者にそれを許した俺を責めていた。それはあの人も俺のことを大切に思ってくれているからなのか、それとも破廉恥な男と愛想をつかされたのか。どうしたら……あの人の真意を確かめられるのだろう。 「到着いたしました」 「もう?」  牛飼い童の声で、はっと我に返った。牛車に乗っている間中、丈の中将のことばかりひたすらに考えていたようだ。どうやら俺は丈の中将のことが気になって仕方がないようだな。  左大臣邸に着くなり桔梗の上の女官が熱心に勧めるので、 まず形式上の妻の部屋へ伺うことにした。 廊下を歩きながら女官がぶつぶつと文句を言ってくる。 「洋月の君様、どうしてこんなに長い間お越しにならなかったのですか? 桔梗の上様は、あなた様がいらっしゃらないのでひどく不機嫌でございました。」 「えっ桔梗の上が?」  いつもなら俺になど全く関心がないのに意外なことだ。 形式上の夫婦でしかない俺の妻は、いつも冷たく、対面もいつも御簾越しだ。だから俺も形式的に挨拶をするだけ。そんな桔梗の上が、俺が来るのを待っているなんて……何かあるのか。 「桔梗の上……申し訳ありませんでした。いろいろありまして、ここへ参るのがずいぶん空いてしまって」  そう言いながら御簾越しに対座すると、桔梗の上が珍しく穏やかな口調で話しかけてきた。 「洋月の君様。お久しぶりです。今日はお願いしたいことがあるのです」 「なんでしょう」 「実はお兄様が、ここのところ様子がおかしいのです。 物の怪がついたのかと思うほど落ち込んでいらっしゃるのです。あなたは兄とは親しかったですよね。どうか話相手になっていただけませんか。私にとって大切な兄なのです」 「……」 「すぐに兄の元へ伺っていただけますね? お願いしますね」  すぐに返事が出来ないでいると、いつものきつい命令口調に戻ってしまった。俺に今すぐ丈の中将のもとへ行けと?降ってわいたような機会ではあるが躊躇った。どのような顔で二人きりで会えばよいのか分からない。もしもあの人に拒絶されたら、どのような心地になってしまうのだろう。 「……分かりました」  不安が募る頼み事を受けてしまったことに、深く暗い溜息が漏れる。それでも桔梗の上のきつい口調に押され、そう返事をするしか術はなかった。  俺は臆病な人間だ。  ただただ……丈の中将の真意を知るのが怖い。

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