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月夜の湖 5

 満月の夜──  それは月夜姫として女子の姿で参内することを意味する悲しい夜だ。そのように指示されるようになり、幾度かの満月の夜が過ぎていった。 今宵も夜更け過ぎに帝からやっと解放され、牛車に乗り込んだ。 「……月山の山荘へ戻ってくれ」  俺に用意された月夜姫のための邸宅は、帝が管理する宇治の山奥の山荘だった。 牛車で通うには遠い道のり。まして姫姿での往復は身体にも精神的にも、きついものであった。 牡丹に激しく求められ疲労困憊で、牛車の屋形の壁に身を預け、うつらうつらしていた時に、突然ガタンっと大きく牛車が左側に傾いた。 「……何事?」  御簾越しに小さな声で従者に問うと 「姫君……申し訳ございません。昨夜の雨で道がぬかるんでいたようでして、 車輪が轍に深くはまってしまいました。一度下車していただかないとならないのですが、困ったことに姫君にお移りいただく手段がないのです」  あぁ……男のなりなら、すぐにここから飛び降りて待つこともできるのに 。足枷のように重たい十二単姿では、そうはいくまい。 いっそ十二単をここで脱ぎ捨てて、誰も知らぬ世界へ 旅立つことが出来たらどんなに楽だろう。  だが供の者は、ほとんどが見知らぬ者。月夜姫として乗車したからには、月夜姫らしく振舞わねばならぬ。 牛車の中で思案していると、突然聴きなれた涼やかなあの人の声が近づいて来たので驚いてしまった。 (えっ……丈の中将が何故ここに?)  まずい。この姿がばれるようなことがあってはならぬ。慌てて胸元に差し込んでいた扇を大きく広げて、顔を隠した。従者と何やらやり取りをした後、今度は牛車のすぐ横で俺に向かって話しかけて来るではないか。一体どうしたらいいのか。 「さぁ姫君……このままではここから動けません。一旦私に身を預けあの樹まで移動しましょう」  そんな!  戸惑う間もなく牛車の簾越しに、丈の中将の晴れやかな顔が見えてくる。  まずい。!  俺は屋形の一番奥まで身体をずらし、背をぴったりとつけ顔を扇で必死に隠した。見つかってはいけないと思うと、緊張のあまり扇を持つ手が小さく震えてしまう。 「姫、そう怯えることはございません。私はあなた様の遠縁の洋月の君の義理の兄になります」  そう言って丈の中将は御簾を強引に上げ、ずずっと身体を乗り入れてきた。 「……」  俺は目を瞑って従うしかなかった。 強引に乗り出した手であっという間に空へと持ち上げられる。 「さぁこちらへ、あちらの樹までお連れいたします」  俺を横抱きにしてよく顔を見ようと伺っているのが分かるので 、ますます扇で顔を隠すが、緊張で身体が強張っていく。 月夜姫として宮中を退出するにあたり、もう一度身支度を整え、化粧につけ毛も施した俺は、自分が見ても綺麗に女に化けているとは思う。女にしては大柄であることが気にかかったが、重たい十二単が体型を隠して気が付かないようだ。  俺が連れて行かれたのは、月光の降り注ぐ湖畔にせり出す大きな樹の根本。  そこは夜の澄んだ空気で清らかに満ちていた。  丈の中将の言う通り、大人しく樹に腰かけて待つことにした。運ばれる時、中将のあの白檀の香が上品に巻き起こり 、更にあの人を傍で見ることが出来て、心が緩んだ。  どうして俺は男なのに……男の丈の中将のことが、こんなにも気になるのか。湖を見つめながら静かに思案した。 俺の本能が女にはない安らぎを丈の中将に求めているのは確かだ。  俺は今まで帝との忌々しい情事をこの身体から消し去りたくて、声をかけられた女性を何度か抱いたことはある。だが女を抱いても抱いても消し去ることができない満たされない心の渇き、さらに帝の匂いに戸惑っていた。抜け出せない穴に落ち……藻掻いていた俺に、そっと優しく温かい肩を貸してくれたのが、あの人だ。  あの人に……この躰に触れてもらいたい。  そんな浅ましい夢を見るようになったのは、いつからか。  俺のことを月夜姫と、女と勘違いしていてもいい。  あの人の近くにいることができるのなら。  あの人と微笑みあうことが出来るのなら、それでも構わない。  俺はどんな姿でもいい!  あの人がそれを望むのなら月夜姫として、女にだってなりきってみせる。  そんな想いで満ちていた。  全く…… 俺はどうかしてる。  ついにこんな馬鹿げたことを考えるなんて。  本当に見て欲しいのは、本当の俺のくせに。  女になんてなりたくない。あるがままの俺を愛して── 「月夜姫ですね……」  そう呼ばれて振り返ると、優しい笑顔であの人が立っていた。

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