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月夜の湖 7

 ──危険な約束だった──  いつ女子の仮面がはがれるかもしれぬのに、あの人に壊れて、つい頷いてしまった。淡い約束をしてしまった。男の身で女を装い、あの人と再び逢う約束をするなんて……それでも俺は次の満月の夜が待ち遠しくて仕方がなかった。 ****  ──満月の夜の約束──  それは牡丹との逢瀬の夜のことでもあった。いつものように激しく抱かれ意識を飛ばしてしまった俺がはっと目覚めると、もう牡丹は寝所にいなかった。 「あ……もうこのような時間か……帰る前に、身を清めたい」  重く軋む躰をよろよろと起こし、隠密の女官に水を頼んだ。冷たい水が沁みる躰に鞭を打ち、念入りに躰を清めていく。好き勝手にあちこちに吐き出され、躰中にこびりついていたものを綺麗に落とし、中で出されたものを自分の指を使って掻き出していく。  こんなことを男の俺が毎回すること自体が狂っている。浅ましい己の躰だ。そして女官に頼み薄く化粧を施してもらう。情けない仕草だ。  ふと手首を見ると、きつく縛られていたせいで、擦れて血を滲ませているのが我ながら痛々しかった。 「……」  どこまでも暗く深いため息が漏れる。そんな俺の表情を年老いた女官はため息をつきながら涙を目に浮かべ見つめている。 「洋月の君様……私は貴方様がおいたわしい。私はあなた様の母上の更衣様が幼い頃からお仕えしてきたのですよ。本当に貴方様はこんなにもお母上に似たばかりに、このような悲劇に遭われて。相手が帝ですので何もできない私をどうかお許しください」  そう静かに泣きながら仕度を整えてくれる。 「そなたの辛い気持ちは分かっている。俺は男だから何をされても大丈夫だ。もうそんなに案ずるな。」  そう諭すと女官は、そのまま泣き崩れた。 ****  牛車が湖畔に差し掛かかったので、そっと従者に声をかけた。 「停めて。少しだけ……ひとりにしてほしい」  そう言って供の者たちを遠くへ下がらせる。しばらくするとあの人の香が風に乗ってやって来くる。御簾の向こうには、あの人の優しい笑顔が見え隠れするので、俺の頬も自然に緩んでしまう。次の瞬間あっという間に空に抱かれ、あの樹のもとに座らされる。 「月夜姫、今宵もお待ちしていました」  丈の中将は、俺の横に寄り添うように立ち、それ以上は近づいてこない。触れないでくれという約束を律儀に守ってくれ、その紳士的な態度にも心打たれる。  何を話したかって?たわいもない物語だ。  いずくにも今宵の月を見る人の心おなじ空にすむらん 藤原忠教 金葉和歌集・182 (白露にはいかにも澄み切った空が映ります。そしてみんなが同じ名月を見上げていると思うと感慨深いものですね)※「白露」 ようやく秋めいてくる季節、空気中の水蒸気が冷えて白く見える月が美しく見える季節のこと    ただ季節を愛で、歌を詠みあった。月明かりの下で二人で交わす、あまりに平凡な日常的な会話に俺の心は涙した。  こんなにも普通に人と温かく会話するなんて、久しぶりだ。  俺は先ほどまで牡丹に激しく求められ、それに応えざる得なかった汚れた躰は女子の衣装に隠し、傷ついた手首は着物の袖奥深くに隠し……女子のように微笑み、頷くのみだ。  今はそれだけでもいい。このような平和な静かに流れる時間を保てるのなら。 「姫、今宵はここまでですね。次の満月の夜にまた此処で逢いましょう。次は月夜姫のような可憐な干菓子をお持ちしましょう」 「……はい」  こんな可愛らしい逢瀬が月が満ちる毎に、二人の秘密の時間として、ひっそりと続いていた。  ──月夜の湖──  そこは俺にとって憩いの場所。とても清らかで穢れなき頃を思い出す美しい湖畔だった。 『月夜の湖』了

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