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その後の話 『雪花』

 洋月と共に新年を迎えるのは、もう何回目だろうか。  今年もまた新しい年を二人で仲睦まじく迎えることが出来た。それにしても正月の朝とは素晴らしいものだ。空はどこまでも澄んでおり、何もかも新鮮な感じがしてくる。  洋月も真新しい直衣に袖を通し、清らかに微笑んでいるではないか。久しぶりにみる彼の正装姿は、凛とした空気を纏っていてこちらの気が引き締まるほどだ。鳥の子色と白を合わせた氷重ねの淡い色合わせが、色白な洋月の肌を程よく魅力的に引き立てていた。  二人で宮中へ参内し賀詞交歓会に顔を出したり、山荘で碁を打ったりと正月らしくのんびりとした時を過ごしていたら、あっという間にもう七日になっていた。  今日は朝から二人で正月らしく飾り立てた牛車に乗り込んで、宮中の※白馬の節会に向かっている。 ※天皇が宮中で左右馬寮の白馬21頭を見て邪気を祓う儀式  朱雀大通は宮中へ向かう牛車で混みあっておりなかなか進まない。だが、そんな時間すらも洋月といれば楽しいものになる。 「なかなか進まないな」 「あぁでもこれでいい。洋月とこうしてくっついていられるからな」 「ははっ、うん……俺もこれがいい」  そう言いながら洋月は甘い砂糖菓子のような笑みを浮かべ、その細い指を私の手に絡ませてくる。その仕草が可愛くいじらしく、私は彼の顎を掬い口づけをすると、外の寒さによって、一層洋月の唇が温かく艶めかしく感じた。 「あっ……んっ」 「全く……止まらなくなるな。君との口づけは」 「んっ……ん…」  唾液で濡れた美しく整った唇を指で拭ってやる。これ以上の触れ合いは牛車ですることではない。  お互いの火照りすぎた頬を冷ますために牛車の物見窓から外を見ると、空からちらちらと粉雪が舞い降りて来た。 「雪になったのか。今宵は冷えそうだな。白馬の節会の後は、私は左大臣邸に新年の挨拶に行かねばならない。なぁやはり一緒に行かないか」 「いや、俺はいいよ。……もう会わす顔がない」 「そうか……君を一人で帰すのは心配だ。なるべく早く帰るようにするから」 「あぁ俺のことなら心配するな。久しぶりに帰るのだろう。いつも山荘に入り浸っているから左大臣もお困りだろう。たまにはゆっくりと父君と母君。そして妹君の顔を見てくるといいよ。母君は少しお体の具合が良くないと聞いている。だから見舞いもかねてぜひ行ってきて欲しいと心の底から思っているのだ。気にするな」  かつて婚姻関係にあった妹が懐妊中であることは当初彼を苦しめたようだが、もう気に留めていないのか……だが軽く微笑んでそう告げる洋月の目は、やはりどこか寂しそうだった。  洋月にはもう正月の挨拶をする父も母もいないのだ。やはりそんな彼を今日一人にするのは忍びなく、計画を取りやめようと思った。 「一人で寂しくないか。やはり行くのは取りやめよう」 「おいおい全く……俺を子供だとでも? ちゃんと行かないと怒るよ」  くすっといたずらっ気に笑う洋月の笑顔は甘く、今すぐ食べてしまいたくなるようだ。 「じゃあ褥を温めて待っていてくれ」 「おいっ」 ****  まだ陽が高い中、丈の中将と別れて一人牛車に揺られて山荘へ戻る。  丈の中将が戻ってくるまでの時間を山荘で一人きりで潰すのは、流石にいくらか寂しいものだなと思いながら、牛車の物見窓から雪が積もりつつある外の景色を眺めた。  ふと川岸の野原に目をやると所々に緑のものが見えた。じっと目を凝らすと雪の合間に若菜が見え隠れしていることが分かった。  そうか今日は※「人日の節供」(七草の祝い)だったのだな。 ※昔から、新春に若菜を食べると邪気を払 って病気が退散すると考えられており、1月7日に春の七草セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ(カブ)、スズシロ(大根)を刻んで入れた「七草粥」を食べるのはそこから来ています。初春の「若菜摘み」も慣例的な行事でした。日本では平安時代から始められ、江戸時代になって一般に定着したそうです。 「海、牛車をとめてくれ」 「はい。洋月さまどうされました?」 「俺も……若菜摘みというものをしてみたい」 「……ですが、外は雪で足元も悪いです」 「いいのだ。今日は特別だ」  海に手を取ってもらい、ちょうど芹川の周辺に広がっている野原に降りてみた。空からちらちらと雪が舞い降り、頬をかすめていくが、寒さは感じない。  丈の中将のために、自らの手で摘んだ七草粥を食べさせてあげたい。そう思うだけで楽しい気分になっていた。 「海、七草というのはどれだ?」 「はぁ……洋月の君は本当に何もご存じないのですね。初めてですか。若菜摘みは」 「どうだろう? 」  ふと記憶のはるか彼方に、春の陽だまりのような光景が浮かんだ。  俺はまだとても小さく、優しい柔らかい手に繋がれて冬の野原にやってきた。その方が指さす場所には雪の間から若菜が覗いていた。真っ白な雪化粧をした若菜は生命力に溢れ輝いていた。 (光る君……)  優しくそう呼ばれて振り向いた先には、美しい女御が微笑んでいた。天女のように美しい人……この方はもしかして俺の母君なのか。  なんてことだ。こんな記憶を俺は持っていのか。忘れていた。覚えていないと思っていた記憶がこんな風に蘇ってくるなんて……これはまるで天からの贈り物のようだ。俺にはないと思っていた母君の記憶が愛おしくて堪らない。 (母君……)  嬉しくて涙が溢れて来たので、袖で慌てて拭った。そしてその涙に濡れた手で、丈の中将のための若菜を摘んだ。 「洋月さまいかがされましたか。あぁ衣が雪に濡れてしまったのですね」  泣いていたことに気が付いたのだろうか、海がそっと雪を避けるように衣をかざしてくれた。 「うん、雪で濡れてしまったようだ」 「さぁもう十分でしょう。帰りましょう」 「そうだな……」  山荘に戻り、庭から空を仰ぎ、遠い黄泉の国にいる母君に話しかけてみた。  俺は今幸せです。長生きしたいと思える相手が出来ました。  七草がゆを食べてもらいたい大切な人がいます。  だから……どうか安心してください。  俺の言葉に応えるように、天からは再びはらはらと雪が舞ってきた。その雪はなぜか温かく春の花びらのように感じた。  これはまさに、『雪花』だな。  古来から人は雪の結晶や雪が降ることを花にたとえたそうだが、まさにその通りだと思った。この世のもとは思えない風景に暫し見惚れていると、再び目頭が熱くなった。 「洋月、ただいま」  突然背後からの声にはっと振り返れば、丈の中将が立っていたので、慌てて袖で涙を拭った。心配かけたくはない。これは幸せの涙なのだから。 「あっ随分と早かったのだな」 「雪深くなる前にお暇してきたよ。やはり私の隣に洋月がいないと落ち着かないからな」  その姿は急いで戻ってきたのだろう。若草色の直衣にも黒い烏帽子にも白い雪がついていて寒そうに見えた。 「丈の中将……衣に雪が。こんなに冷たくなって……君が病になられては困る」 「大丈夫だ、洋月が摘んでくれた七草粥をいただくから」 「あっ知っていたのか」 「海から聞いたよ。ありがとう。指先が冷えただろう。こんな雪の中、自ら若菜摘みをするなんて…」 「だが君のことを考えながら摘んでいたので、少しも冷たくなかった」 「そうか……嬉しいことを言うんだな。ありがとう」  丈の中将は俺をぎゅっときつく抱きしめてくれた。だがその時、涙で濡れた袖元に手が触れたようで、怪訝そうな顔をした。 「んっ……では、この袖が濡れたのは何故だ?」 「あっ摘んでいたら雪が降って来て袖が濡れただけだ。なんだか、この歌を思い出すな…」 ****  君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ  光孝天皇(15番) 『古今集』春・21  訳・あなたのために、まだ寒さの残る春の野原に出かけて、食べると長生きできるという春の野草を摘みました。摘んでいると、服の袖にしんしんと雪が降りかかってきましたよ。  **** 「君のために摘んだのだ」 「洋月……ありがとう」 「俺はもう寒くはない。降る雪さえも温かく感じることが出来るようになったのは、君が傍にいてくれるからだ。優しく思いやりがある君の心はいつも俺を和ませてくれるから」 「洋月は、いつも嬉しいことを言ってくれるのだな」  ぎゅっと抱きしめられ口づけを交わし、互いの体温を分け合えば、雪に濡れた衣も袖も冷たくはない。俺は嬉しい気持ちで一杯になり、丈の中将の肩越しに降る雪を見つめた。白く温かく花のように降り続ける雪は、まるで母からの祝福のように感じた。 「何を見ている?」  俺の視線を辿って、丈の中将も天を仰ぎ見た。  雪の結晶がくるくると回転して、次々と優しく舞い降りてくる。 「あぁこれはまさに雪花だな、まるで、天から祝福されているようだな」  無言で、コクンと俺は頷いた。  伝わっている。  俺の想いは、ちゃんと君に届いている。  それがなんだか無性に嬉しくて……やはり少し涙が出てしまったので、濡れた袖でそっと拭った。  了 後書き **** こんにちは!季節感がなくてすいません。 七草粥にちなんで、こちらのSSを書きました。降る雪さえも温かく感じる二人の交流にほっとしていただければ、嬉しいです。

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