58 / 62

その後の話『梅香る君』 1

「洋月の君、暫く此処には来ることが出来ないが、ひとりで大丈夫か」  そう言い残して丈の中将が左大臣家へ戻ってから、一体何日が過ぎたことだろう。  帰って来ない理由は知っているし、そのことについては納得しているので、もうしばらくの我慢だ。そう必死に言い聞かせていた。だが……独りで過ごすことには慣れているはずなのに、やはり君がこんなにも長い間、傍にいないのは寂しいものだな。  しんしんと雪が積もる凍てつく夜に酒を飲み交わす相手がいない。独りの寝所は冷たい世界で、俺は嫌な夢ばかり見てしまう。天から舞い降りてくる雪の美しさを風花のようだと微笑みながら抱き合った日々が、ただ懐かしい。  今頃、君はどうしているのだろうか。  想いを馳せるように庭先を見つめると、昨日までは蕾だった梅の花が咲いていた。だが咲いたのは白梅だったので、朝から降り積もっている雪に埋もれそうに、消えてしまいそうに儚げな姿だった。    そんな光景に、古の人が読んだ歌をふと思い出した。 ……  花の色は 雪にまじりて見えずとも 香をだににほへ人の知るべく                          (小野篁 古今和歌集)  現代語訳 白梅よ、花の色は雪にまざって見えないとしても、せめて香だけでも匂わせよ。人がそれと気づけるように。 ……  せっかく君と心待ちにしていた梅の花が咲いたのに、共に見ることが出来ないのは残念だ。せめて香だけでも届けられたらいいのに。このままでは雪に埋もれてしまうよ。  募る想いをかき消すことも出来ず、結局……庭先に降りてそっと手を伸ばし、その梅の枝を手折り、丈の中将の部屋に飾ってしまった。香だけじゃつまらない。愛でて欲しい。  もしや梅の花が咲いた今日ならば、帝の御前で会えるかも……そんな甘い期待を抱き牛車で参内した。  はらはらと雪花が舞う道を行く牛車の中には、先ほどの梅の移り香が自分の直衣から甘く切なく立ち込めていた。 ****  宮中に参内しても、どこかうわの空で歩いていると、※透渡殿を渡り切った所で、突然声を掛けられた。  ※透渡殿(すきわたどの)寝殿と東西の対を結ぶ建物を渡殿と呼び、吹放しの通路となっていた。 高欄付きの反り橋に作られており、当主に対面する来客はここを渡って寝殿へ参上しまた。 「やあ洋月の君、どうしたのですか? ぼんやりとされて」 「あっ……兵部卿宮殿」  この人は桔梗の上の再婚相手……今は会いたくない相手だった。 「いいところでお会いしましたね。ちょっとこちらへ」 「なっ……何処へ」  いきなり馴れ馴れしく肩を組まれ虫唾が走った。さらに、そのまま有無を言わせず※渡殿(わたどの)にまで連れ込まれてしまったので、身を固くした。  ※渡殿(わたどの)透渡殿と並んで北側にある通路で、北側の一間には局が設けられていました。 残る南側一間が通路となり、局と通路の間には格子や枢戸がはめられており、局は主に女房などの日常の部屋に当てられていた。『風俗博物館』資料参照  なんでこんな人気がない局(部屋)に連れ込むのだ? 嫌な予感がし、何とかその場をすり抜けようとするが、格子に躰を押さえつけられてしまい身動きが取れない。でも……ここで騒げばかえって大事になってしまう。 「なぁ、君は知っているだろう? 私に言うことがあるだろう」  思わせぶりな横柄な態度。彼が何を言いたいのか分かっている。 「あぁ……おめでとう。健やかなお子様がお生まれになったそうで」 「はははっ、そうかそうだよな。もう君の耳にも届いている頃だと思っていたよ。今左大臣家は連日の祝い客で大賑わいだ。それにしても君のここは全く役に立たなかったのだな。なぁ……ちゃんとついているのか。そんな女みたいな顔で、ちょっと触らせろ」 「なっ……何をする? 痛っ…うっ…」    突然ニヤリと笑った兵部卿宮の手がすっと股間に伸びて来て、布越しにまさぐられ、見つけ出されたものを強く握りしめられたので、苦痛で悲鳴が漏れてしまった。 「あぁこれは失礼。あんまり小さいので本当についているのか確かめずにいられませんでしたよ。これでは無理ですねぇ。とてもお子などなせない」 「しっ失礼だ、人を呼ぶぞっ」  気丈に受け答えするが、声も躰も震えてしまっていた。 「おやおや……人を呼ばれて困るのはあなたの方でしょう。光る君……私は知っていますよ。桔梗の上の躰は、未だに※おぼこだった」  ※処女 「なっ……」 「教えて下さいよ。何故手を出さなかったのです? 仮にも世間に認められたご夫婦だったのに」 「放せっ」  その手にまた力が入ったので、このまま握りつぶされそうな恐怖に躰が震えてしまう。 「何か深い訳が有るのでは? 」

ともだちにシェアしよう!