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第2話
「ほんとマジありえんし。総合テスト始まって早々に、バッチジョブこかしといて担当者おらんって、なに考えとるんって話ですよ」
ぷりぷりと文句を言う平田の様子に助手席の丸山が、あはは、と笑い出す。すると平田の怒りの鉾先は丸山に向かったようで、
「丸山くんも人のこと笑えんよ! あれほど確認してって言ったのに、なんであそこのパラメータ引数、一じゃなくて三にしたんよ、サンにっ!」
はいっ、すみませんっ! と丸山がシートベルトで固定された背筋を伸ばした。そこに疲れたような英語の台詞がぽそりと響いて、
「平田さん、あまり怒るとチャーミングな顔が台無しだってチャドが」
「ええっ、チャドさん、ひどぉい!」
平田の叫びが車内に響いたところで最初の経由地に到着する。優弦がホテルの前の歩道に車を横づけしてドアを開けると、後部座席の外国人は大きな体を屈めて小さなドアから歩道へと降り立った。彼は二言三言、車内に残った面々ににこやかに言葉をかけて、ホテルのロビーへと入って行った。
「次は観音本町ですね」
車をふたたびスタートさせた優弦に向かって、後部座席の真ん中から左端にお尻を移動させた平田が、
「はい、本町一丁目のバス停で。……というか、運転手さん、なんだか珍しい名前ですね? それに写真の顔、すっごく若く見えるっ」
三人の視線が助手席前に付いている自分の乗務員証に注がれているのが分かる。月見里優弦。大抵、優弦の車に乗った客はこの名前を珍しがって聞いてくるが、今までまともに答えられる人はひとりもいなかった。
「ツキミサトさんっていうんですか?」
人懐こく聞いてくる彼女に、ふふっ、と優弦は小さく笑って、
「いえ、私の名前は、」
「ヤマナシって読むんだよ。ね、運転手さん」
運転席の後ろから発せられた爽やかな声に、自分の名字の読みを見事に言い当てられて驚いた。これは櫻井の声だ。
「……よくご存じですね。自分の名前をきちんと呼ばれたのは、お客様が初めてです」
ええっ、と隣の丸山と後ろの平田が驚きの声を上げる。その二人の反応に気を良くしたのか、彼はさらに、
「下の名前も格好いいね。ユヅルさんって読むんでしょ?」
そうです、と答える前にまた、櫻井さん、すごい! と平田の黄色い歓声が飛んだ。
「でもどうして『月見里』って書いて『やまなし』って読むんですか?」
「それは自分で調べてごらんよ。他にも小鳥が遊ぶと書いて『たかなし』とか、四月一日と書いて『わたぬき』とか、結構珍しい名前の人がいるみたいだよ」
へええ、と二人が感嘆の声を上げた。そのさまが優弦は可笑しくて、笑いを抑えるのに苦労した。
「いいなあ。私なんか平田由美 ってチョー平凡な名前」
「おれなんか丸山和夫 っすよ。もっと親も捻ってくれたら良かったのに」
こらこら、と苦笑いで若い二人を諌める櫻井に、
「櫻井さんは、櫻井雅樹 なんて、どこをとってもエリートビジネスマンの匂いのする名前じゃないですか」
ひとしきり名前談義に花が咲いていると、観音本町のバス停が近付いてきた。
「じゃあ、おつかれさまでしたぁ。おやすみなさい」
紅一点の由美がいなくなると急に賑やかさがなくなる。今度は後ろの櫻井が、助手席の丸山に対して仕事の指示を始めたようだ。優弦は車内の会話から意識を離して、運転に集中した。
宮島街道 沿いのJRの駅で助手席の丸山を降ろす。後部座席の櫻井は助手席の後ろへと移動していて、ルームミラーで様子を窺うと鏡越しに目が合った。にこりと笑いかけてくるその風貌は眉はきりりとし、鼻筋もすっと通り、なるほど、仕事のできる男といった感じだ。
「このまま宮島街道を行きますけれど……」
「ええ、お願いします。場所は、」
櫻井が言った降車場所は、宮島の手前の近郊の住宅団地に住む人たちが多く利用する駅名だった。
(本当に偶然だ。まさか営業所の近くの駅なんて)
これならば、今日の業務はこの男を降ろして最後でもいいだろう。優弦が了承の返事をすると、
「実は運転手さんの名前の読み方、学生時代の友人に教えてもらったんだ」
砕けた口調の彼に、そうだったんですか、と返事をして優弦は話相手をすることにした。乗客の中には、余計なことを話しかけるな、というオーラを纏う人もいるが、櫻井はそうではないようだ。
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