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第4話
「おれは三カ月前に東京から長期出張で広島に来たんだよ。本当はもっと現場の近くがよかったけれど、なんせ経費節減でね。会社から、郊外のこんなところにマンスリーマンションを借りられちゃったのさ」
それでもここはJRで広島駅まで二十分、名物の路面電車を利用しても広島市内に小一時間だ。近くに大きなショッピングモールもあり、生活するには便利なところになっている。ただ、ここにビジネス利用のマンスリーマンションがあるなんて、優弦も初めて知った。
ここで停めて、と言われハザードランプを点灯させる。車を停車したマンションはまだ新しい建物だった。タクシーチケットで支払うという櫻井に、チケット利用の署名をもらおうとバインダーを手渡した。書くものがないことに気づいて、制服の胸ポケットに挿していたボールペンを取ろうとすると、それよりも先に彼は自分の胸ポケットから取り出した万年筆のキャップを外していた。
さらさらと紙の上を走るペン先がオレンジ色のルームライトにキラリと光る。長くしっかりとした指先に馴染んだ万年筆の軸胴部は、黒のエボナイトの上にシルバーで細かな細工が施してあった。物珍しさもあって優弦は思わず、
「……綺麗な万年筆ですね」
「ありがとう。これは祖父がくれたものでね。やっと自分に馴染んできたんだ。大切にしているから褒められると嬉しいね」
サインを終えたバインダーを笑顔で手渡され、優弦は制帽の下の視線を泳がせながら、どうも、とそれを受け取った。
「これからまた大手町に戻るのかい?」
「いえ、今夜はお客様が最後です。実はうちの営業所はここからすぐ近くで、今日最後の乗客が西方面の人ならいいな、と思っていたら、皆さんがいらっしゃったので」
それはよかった、と櫻井が助手席の後ろに掛けてあるホルダーから、小さなチラシを一枚抜き取った。チラシは優弦の勤めるタクシー会社の案内だ。
「『ご用命はさくらタクシーへ』 なるほど、さくらタクシーの月見里さんか。今度から帰りが遅くなったら来てもらおうかな? だって、おれと同じ名前のタクシー会社だし」
ふふっ、と笑いかけてきた櫻井の顔を見て、優弦は少し頬が熱くなった。
「は、はい。あの、また、お願いします……」
優弦はうつむき加減で制帽のつばで少し顔を隠した。すると後部座席から降り際に櫻井が、
「今月と来月の半ばまでは、今夜みたいにあの時間にあの場所で待っていたらいいよ。必ず何人か、タクシーを利用する人がいるから」
颯爽と車を降り、右手を軽く挙げて優弦に挨拶をすると、櫻井はマンションのエントランスへと入っていく。その広い背中に「ありがとうございました」と声をかけて、ふぅ、と優弦はひと息ついた。
客とこんなに話が弾んだのはこの仕事に就いて初めてだ。おまけに彼は収入に繋がる、とても良い情報までくれた。
優弦の胸に久しぶりに、人との会話が楽しいという気持ちが浮かぶ。
(よし、帰りにまたあそこへ寄ろう)
優弦は櫻井の消えたマンションのエントランスをちらりと見たあと、サイドブレーキを下ろした。
まだ夜も空けきらない冷たい空気の中、優弦はダッフルコートに両手を突っ込んで暗い海を見ている。
ここはさくらタクシーの営業所から、海岸へ車で十分ほど行ったところにある大きな橋の上。アーチ状のその登頂部の歩道の欄干に、背中をつけて優弦は立っていた。
『はつかいち大橋』と呼ばれるこの橋は、広島市と隣の廿日市市《はつかいちし》を結ぶ道路橋で、ヨットハーバーを利用する船が橋の下を通過できるように中央部は海面から結構な高さがあった。それに車で走ると勾配も急で、広島のベタ踏み橋としてメディアに取り上げられたこともある橋だ。
長さもかなりある橋だから、日中はランニングやサイクリングをしている人もいる。彼らの目当ては橋から眺める海の風景だ。優弦もその景色を楽しみにここへやって来る。
海を正面にして右手に日本三景のひとつ、安芸の宮島。そこから視線を左に移すと、いくつかの島々がそびえて、そして広島市内が見える。まだ冬の朝早い島影は、町灯りが海面に線を引いて輪郭を際立たせている。反対に広島市内に向かうと、山の中腹にまで光が溢れて温かそうに見えた。
優弦はいつも仕事上りの早朝に、ここに来ては海を見ていた。さすがに雨や冬の寒さの厳しいときは足を運ばないが、瀬戸内の海を一望できるこの場所が気に入っている。ここでひとりで夜が明けるまで、刻々と変化する空と海の色を眺め、頭の中をからっぽにして家に帰って仮眠を取る。そうしないと、色んな雑多なことに気を取られて眠れないからだ。
(これからの時期は太陽の光が綺麗に海面に映るな)
タクシー運転手を始める前までは、そのころ世話になっていた義兄の家の二階の窓から、朝から晩まで光る波間をぼんやりと眺めて過ごしていた。船の軌跡に大きく揺れ、並ぶ牡蠣筏に当たって光が散っても、穏やかな水面にすぐに光が戻ってくるさまがとても綺麗で、時間を忘れて見入っていた。あまり見つめていると眼に良くないぞ、と義兄は心配していたが、今となってはそれも昔のことに思えるほどに、心は穏やかになったと感じている。
過ぎる時間とこの海の風景が、今の優弦を取り巻くすべてだ。
寒さに首を竦めてダッフルコートに口と鼻を埋めた。冷たい風は潮の香りを乗せている。
(そういえばさっきの客、少し懐かしい匂いがした)
バインダーを返されたときに、彼の手首辺りから仄かに香ったオリエンタルのラストノート。
優弦は明るく浮かんできた対岸の島々の稜線を見ながら、記憶に残るその香りを思い出していた。
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