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第5話
***
「おっ、優弦、これから出庫か?」
営業車の清掃を終えて事務所に入ってきた優弦に、少し眠そうな声がかけられた。
「おはようございます、川本 さん。今日は上がりですか」
ふわあ、と盛大な欠伸で優弦の問いかけに答えたのは、川本という先輩乗務員だ。優弦の勤める『さくらタクシー』は郊外の小さなタクシー会社だが、乗務員はみな、五十、六十代の人が多く話が合わない。彼らもあまりにも歳が離れている優弦に、どういった態度を取ればいいのか迷っているのがわかる。そんな中で唯一、歳が近いのがこの川本で、優弦が就職したときは、やっと下っ端ができたと喜んで、なにかと目をかけてくれる気のいい兄貴肌の人だ。
出発準備を整えて、行ってきます、と事務所を出た優弦の肩に、川本は腕を回すと小さな声で、
「そうそう、おまえが教えてくれた大手町のあのビル前な。凄いな、あそこ。夜から朝にかけて長距離 三往復したで」
「三往復? どこをですか?」
川本は今夜の遠出の先を告げると、
「最後が営業所近くの駅前。そうじゃ、その最後に乗せた客がおまえのことを聞いてきたわ」
すぐそこに降ろした客ということは、もしかして……。
「川本さん、その客は女性を含めた四人で乗車しました?」
「いや、ひとりじゃったよ。乗るなり行先ゆうたら寝てしもうてから。でも降りぎわに『さくらタクシーなら月見里さんって運転手さんがいますよね』って」
(……あの客が覚えていてくれた)
櫻井に会ったのは最初の夜一度きりだ。あれから何度かあのビルの前で深夜に客を乗せたが、櫻井が乗ってくることはなかった。代わりに先週の夜に、あの丸山と平田という若い男女が乗車してきた。二人は優弦のことを覚えていて、三人とも歳も近いと話が少し弾んだ。そのときに櫻井のことを聞いてみたら、今週は東京に行っていると教えてくれた。
(東京から戻ってきたんだ……)
「今度、会う機会があったら名刺交換でもしてみい。もしかしたら、指名してくれるかもしれんで」
ほいじゃあ、お先ぃ、と欠伸を噛み殺して帰る川本に、お疲れさまでした、と挨拶をして優弦は営業車へと乗り込んだ。エンジンをかけ、ウィンカーの動作をチェックし、サイドミラーの位置を合わせてルームミラーに手を伸ばしたところで、鏡に映った自分のにやけた顔にぎょっとした。
(だめだ。注意散漫じゃ、事故を起こす)
ぱんっ、と両手で頬を叩いて気合いを入れる。白い手袋を嵌めて制帽を被ると、優弦は本日の営業へと出発した。
午前中は近くの総合病院からの客を何人か乗せて、昼休憩のあとは宮島口に待機する。そして夕方近くなると広島市内へと移動して、いつも休憩を取る川沿いの小さな公園脇へ車を停めた。ここは公園内にトイレもあるし、近くにコンビニもある。夏は川沿いの遊歩道の木々が大きく葉を茂らせるから丁度良い日除けになるし、なんといっても春には桜が満開で、多くのタクシー運転手が利用する休憩スポットになっていた。
一時間ほど仮眠を取って、また業務を開始しようとしたとき、無線から配車案内が流れてきた。駅うらにあるホテルから配車を頼んだ、「サクライ」という客の名前に優弦は反応した。
(あの人だ。あのホテルなら、おれが一番近い)
優弦は無線を取って、「二一五、向かいます」と短く自分の車番を伝えると、サインを『迎車』に変えて車をスタートさせた。
目的のホテルに近づくと、入り口前の歩道に二人の背の高い男が、大きなスーツケースを二つ持って立っているのが見えた。その顔がはっきりと見えてくると、なぜか少し胸が弾む。優弦はひとつ咳払いをしてから二人の近くに車を停めると、トランクルームのロックを開けた。運転席から降りて車を廻り込み、優弦は被っていた制帽を脱いで歩道の二人の客に挨拶をした。
「櫻井様、本日はさくらタクシーのご用命、ありがとうございます」
櫻井は笑顔を作った優弦の顔を見て、あっ、と声を上げると、「今回の運転手は月見里さんか。二度目だね」と、うれしそうに返事をしてくれた。櫻井に名前を呼ばれ、頬が緩みそうになる。でも、それを悟られないように気を引き締めると、
「お荷物はこちらの二つでよろしいですか?」
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