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第6話

 車のトランクに運ぼうと、大きなスーツケースの一つに手を伸ばした優弦に、 「ああ、いいよ。それは重たいからおれたちで運ぶ」  慌てた様子の櫻井の大きな手のひらが、スーツケースの持ち手を掴んだ優弦の手の甲に触れる。急に白い手袋越しに櫻井の手の温もりが感じられて、思わず優弦は手を引っ込めた。 「も、申し訳ございません」 「いや、こちらこそ。『ほら、チャド、君の荷物なんだから早くトランクに入れろって』」  最後の台詞はまた英語で、櫻井と大柄の外国人は軽々とスーツケースを抱えると、ひょいっとトランクの中に納めてしまった。 「どちらまで行きましょうか?」  運転席に座りシートベルトを締めて、後ろの席の櫻井に問いかける。櫻井とチャドも大きな体を後部座席に落ち着かせて、 「まずは大手町のMビルへ。そこで彼が少し用事を済ませるので待っててもらえるかな? それから……、えっと、ここはどこだ?」  櫻井がなにかの紙を持って小首をかしげる。そして、その紙を運転席と助手席の間から優弦に差し出した。ふわりと香るオーデコロンと共に優弦は紙を受け取って、そこに記された住所と写りの悪い地図を確認した。 「ああ、ここは御幸橋(みゆきばし)の近くですね。わかりました。では出発します」  地図と住所を頭に入れると優弦は櫻井に紙を返して、右のウィンカーを点灯させた。  走り出した車の中では早速、後ろの二人が会話を始めている。だが、その会話の内容はどうも仕事の話ではないみたいだ。 『これからまたしばらく、彼女の作るカレーが食べられないなんて悲しいよ』 『たった一か月じゃないか。それに今度はホテル暮らしではないのだから、奥さんも連れてくればよかったのに』 『彼女は東京から離れたくはないんだ。友人も沢山いるし、一か月くらいボクと離れていても屁でもないんだよ。一応、彼女にヒロシマに来てくれるように頼んではみたけれど、断られちゃったよ』 『それなら仕方がないな。でも君も納得しているのに、なにをそんなに落ち込む必要があるんだ?』 『そりゃ決まっているだろう! カレーだよ、ここには彼女の腕を超えるような、うまいカレーを出す店がない!』 (やっぱりインドの人なのか――)  優弦は、後部座席で繰り広げられるチャドのカレーへの熱い演説に思わず、ふふっと笑ってしまう。 『ねえ、サクライ。ヒロシマで美味しいカレーの店を知らないか? 君はここには長くいるのだし、ボクらを束ねる者としてはそれくらいのリサーチも必要だろう?』 『あのな、おれはツアーガイドじゃないんだよ。それに辛い物も得意じゃないんだ』  赤信号で車を停める。横断歩道を渡る人々を目にしていたら、ふと、優弦はある店を思い出した。そうだ、あそこなら。 『お客様、おいしいインドカレーのお店なら、一つご紹介できるところがありますよ』  急に二人の話がピタリと止まる。一気にシンと静まり返った車内の様子に優弦は、しまった、と我に返った。客の話に横から入り込むなど、本来の自分なら決してしない行動だ。  信号が青になり優弦はアクセルを踏み込む。後部座席の二人に出過ぎた態度を謝ろうとしたとき、 『その店って、ここから近い?』  この声はチャドだ。ええ、と優弦は返事をすると、 『Mビルからだと商店街を横切って二つ目の路地になります。その店はオーナーも従業員もインド出身の方なので、本場の味に近いと思いますよ』 『素晴らしい! 君、ぜひ、そこに連れて行ってくれ!』  急に朗らかに響いたチャドの声に、隣の櫻井の驚きの表情がルームミラーに写し出される。 『なあ、サクライ、いいだろう? そうだ、今日の夕飯はサクライも一緒にその店に行こうじゃないか!』 『チャド、その申し出は嬉しいが、おれは辛い物は苦手だってさっき言ったよな? それに引越しの荷物の整理だってあるだろう?』  もうすぐ最初の経由地のMビル前だ。優弦は左車線に寄るとハザードランプを点滅させてタクシーを路肩に停めた。渋る櫻井に向かって、急に饒舌になったインド人は後部座席のドアを開けた優弦に、 『そうだ! 君も一緒に夕食をどうだい? どうせ店まで連れて行ってもらうんだから、二人の分はボクがご馳走するよ。ええと、ドライバーくん、君の名前は?』  運転席から後部座席へ振り向くと、驚きの表情の櫻井と満面の笑顔のチャドの二人の視線が優弦に注がれている。

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