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第7話

『あの、私の名前は優弦、ユヅル・ヤマナシですが……』 『じゃあ決まりだ! サクライ、ユヅルと一緒ならいいだろう? ボクとサクライは書類を出したらすぐに戻ってくるから、ユヅルはここで少し待っていてくれ。ほら、サクライ、さっさと降りて』 『いや、書類提出くらい君ひとりで行けば……』  そんな櫻井の嫌がる素振りなどどこ吹く風で、チャドは無理矢理に彼を急き立てると呆気にとられる優弦を残して、後部座席からビルのエントランスへと走っていった。 「大丈夫ですか?」  赤い顔をして、先ほどからカレーを口にしては何度もグラスの水を飲む櫻井に、隣の優弦はおろおろと気を遣う。そんな櫻井の様子を目の前のチャドは面白そうに見ながら、 『本当にこの店は最高だよ、ユヅル! これなら妻のカレーが食べられない一か月間、毎日通って過ごせるよ』 『……お客様のお口に合ったようで光栄です』  チャドはインド人の店員を呼びとめると、現地の言葉で愉しげに会話をし始めた。優弦は残ったナンに、最後のチキンカレーをスプーンですくって乗せると口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼していたら、隣の櫻井からの視線を感じた。 「?」  ごくんと飲み込んで、少し首をかしげる。途端に隣の櫻井が、んんっ、となにかを喉に詰まらせたように咳をして、自分の唇の端を人差し指で指し示すと、「カレー、ついてる」と教えてくれた。  櫻井の指摘に優弦は顔を赤くすると、テーブルの上の紙ナプキンを慌てて引き抜いて口元を拭う。すみません、と小さく礼を言った優弦の姿に櫻井は楽しそうに笑って、 「でも見かけによらず、月見里さんは辛い物が好きなんだね」 「見かけによらず、ですか?」 「ああ、ごめん。気を悪くしないで。おれが勝手に月見里さんは甘いものが好きで、辛いものは苦手なんだろうとイメージしていただけだから」  たしかに自分は母親に良く似た女顔だ。色も白いし全体的に線が細い。おまけに左目の目尻の下に小さな泣きぼくろまであって、いくら母子でもここまで似なくていいだろうにと鏡を見るたびに思っている。  まだ二回しか会ったことがないのに、そんなイメージを持たれていたことに少し憮然としながらも、 「ええ、割と平気なんです。お客様の方こそ、カレーが苦手だなんてそんな感じに見えないのに」  優弦の返しに櫻井が苦笑いをする。そして、 「月見里さん。『お客様』なんてよそうよ。チャドも君をファーストネームで呼んでしまっているし、おれのことも名前で構わない」  そう言うと櫻井は優弦に爽やかに笑いかけた。初対面のときから櫻井は砕けた感じの話し方だったが、一緒にテーブルについて食事をするうちにもっと打ち解けてきたのか、まるで親しい友人に話しかけるような物言いに変化している。そんな櫻井の笑顔が眩しく写って、優弦は戸惑い気味に視線を外した。優弦の焦りを知ってか知らずか、櫻井はさらに親しげに優弦に話しかけてくる。 「でも、イメージと違うといえば、さっきは驚いたな。君は凄く流暢な英語を話すんだね」 「英語?」 「あ、あれも無意識だった? ほら、車内でこの店を教えてくれたときから、チャドに合わせてずっと英語で喋っているじゃないか」  櫻井に指摘をされて初めて気がつく。そうだ、たしかに櫻井とチャドの会話は日本語ではなく英語だ。 「月見里さんは帰国子女? それともどこかに留学でも?」  興味深く櫻井に尋ねられて優弦は返事に詰まってしまう。優弦は留学どころか今までに一度も海外に行ったことがない。それでも、学生の頃から英語の授業は好きだったし、母国語とは異なる言語で様々な国の人とコミュニケーションが取れるのは楽しいと思っている。ただ、これだけ自分が日常会話に不自由しないほどに英語が上達した経緯は、あまり思い出したくないことだった。 「……前の職場は外資系企業だったんです。上司も同僚も外国の人が多かったから……。それでだと思います」  俯き加減で答えた優弦は、目の前のラッシーのグラスを手に取るとストローで吸い込んだ。すると、そのさまをじっと見ていた櫻井が、ぽそりとなにかを呟く。えっ、と聞き返した優弦に、 「いや、なんでも。そうだ、月見里さん。名刺とか持ってる?」  名刺と聞いて、優弦は今朝の川本との話を思い出した。

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