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第8話
「そういえば、昨夜も遅い時間にうちをご利用くださったそうで」
「もう明け方だったけれどね。実はいつもタクシーを使うときは、さくらタクシーに配車を頼んでいたんだ。だけど君に当たることがなかなかなくて、それで今朝の運転手に聞いてみたら『月見里がいいって指名するか、直接あいつに連絡してください』って言われてね」
櫻井が椅子の背もたれにかけていた上着の内ポケットから名刺入れを取り出す。優弦も着ている制服から名刺を出して櫻井に差し出した。互いの名刺を交換し、優弦は小さな紙に書かれた櫻井の名前と会社名をまじまじと見つめた。
――櫻井雅樹。東京の住所が書かれたその社名は以前、優弦が勤めていた外資系企業とも繋がりがある。でも、優弦はそのことを櫻井には黙っておいた。
櫻井もじっと優弦の名刺を見つめた後、それをわざわざ財布の中に仕舞うと、
「いつでも電話しても大丈夫?」
「基本的に乗務日の翌日は明休なんです。それと公休もあるから二日続けて休む日もあります」
「へえ、おれよりもひょっとして休みが多いのかな?」
「そうかもしれないですね。乗務日は途中で休憩は挟みますが、基本、翌朝までの二十時間勤務なので、その分ゆっくりと体を休める時間があるんです」
「そうなのか。タクシー運転手はもっとハードな仕事なのかと思っていたよ。おれたちの方が昼も夜もなくてブラックだな」
自虐的な笑いを含んだ櫻井の物言いに優弦も釣られて笑みを返した。
「それなら月見里さんの乗務日を教えてもらわないとね。あれから何度も他のタクシーに乗ったけれど、君ほど丁寧かつ早く目的地に着ける技量を持つ人はいなかった」
櫻井に自分の運転技術を褒められて優弦は、かあっと顔が火照るのが分かった。
(……たった一度乗せただけなのに、こんなに褒めてもらえるなんて)
タクシー運転手になって一年あまり。これまでにも運転が丁寧だと客に褒められたことは何回かある。とくに総合病院から乗せたお年寄りなどは優弦の柔らかな接客態度が気に入ってくれるのか、次の利用からロータリーで優弦の姿を見つけると、わざわざ後ろの人に順番を譲ってまで優弦のタクシーに乗り込む人もいるほどだ。
(でも、この人に認めてもらえてると、ちょっと嬉しいな……)
優弦が恥ずかしさを誤魔化すためにもう一度、ラッシーのストローに口をつけると、
『チャド! そろそろ帰ろう。おれはこれから丸山くんたちと一仕事あるんだ。君も引っ越し荷物の整理があるだろう?』
櫻井の呼びかけに、店員と盛り上がっていたチャドが満足げに親指を立てた。もう少し待って、と言うチャドに苦笑いをしながら櫻井は上着を羽織ると、
「今夜の一時過ぎにMビルまで迎えに来て欲しい。今夜は丸山くんと平田さんと三人なんだ」
「わかりました。その頃にお迎えに上がります」
櫻井に約束し店の入り口に二人で向かうと、先に会計を済ませたチャドが店員から受け取った手提げ袋を二人に手渡した。
『ユヅル、とてもいい店に連れてきてくれてありがとう。これはちょっとしたお礼だ。休憩のときにでも食べて』
『ご馳走して頂いたのに、お土産まで』
『いいんだよ。だって、ボクにはいつも仏張面のサクライがこんなに楽しそうなんだから。それからサクライも、これはユミとカズオにあげてよ』
『いったいなんなんだ?』
『サモサだよ。いつもユミは遅くなると、お腹すいたーって泣き言を言うからさ。これはボクからの差し入れ』
こんなことは初めてだ――。
手の中の包みの温もりが優弦の胸の奥にもぽかぽかと伝わる。あのとき、差し出がましく口を挟んだ結果が、こんなにいい人たちと夕食を共にすることができて、優弦は不思議な感覚に陥った。それでも、ふわふわと温かくなりながらも優弦はもう一度、櫻井やチャドに深く頭を下げて礼を言った。
すると、そんな優弦の様子を笑って見ていたチャドがいきなり大きな手を優弦の頭の上に乗せると、わしゃわしゃと髪を混ぜ始めた。
「えっ? あの、お客様っ!!」
『チャド! なにをするんだっ』
櫻井が慌てて優弦の両方の二の腕を後ろから掴むと、チャドから自分の体へと優弦を引き寄せる。
『いきなり月見里さんの頭を撫でるなんて失礼だろ』
『いや、なんだかとてもユヅルがキュートに見えたんだよ』
『キュートって。それだけじゃない。さっきから、ユヅル、ユヅルと馴れ馴れしく月見里さんのことを呼び過ぎだ』
『じゃあ、サクライだって呼べばいいじゃないか。なあ、ユヅル?』
二人の子供のような言い争いに優弦はおどおどと止めに入る。
『あの……、私は別にユヅルと呼ばれてもまったく構わないので……』
タクシーを停めてある立体駐車場へと向かう道すがら、背の高い男二人は優弦を間に挟んで道行く人が振り返るのも構わずに言葉の応酬をしている。頭の上を飛び交う早口の英語がまるで漫才のように聞こえてきて、優弦は思わず笑みを漏らした。
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