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第9話

***  また今夜も遅くなってしまったかと、暗闇に浮かぶビルの灯りを眺めながら、櫻井雅樹(さくらいまさき)は背後の自動販売機で買った缶コーヒーのプルタブを開けた。ふわっと香った爽やかなアロマに少し頭がはっきりとする。温かな液体を口に含むと、その酸味と苦みのお陰で疲れていた体も覚醒したようだ。  ここはこのビルの各階に設けられているリフレッシュコーナーと銘打たれた休憩場所だ。数台の自動販売機の横にソファが並び、スタンド灰皿が二つ立っている。昼間や夕刻なら、ここで一息ついて各々のオフィスに戻る人もいるが、さすがに夜中の十二時を廻ると誰も利用しないからか、廊下から続く天井からの照明は落とされていた。  もう一口、コーヒーを喉に流し込んだ途端、ヒリリと焼けつく違和感を覚えた。そう言えば今日は朝から少し体が重い。そう自覚すると急にうなじの付け根から肩にかけてぞくぞくと悪寒が走った。 「櫻井さぁん、どこですかー?」  高いヒールがリノリウムの床を蹴る音と一緒に、少し籠って鼻にかかった声が自分を呼んでいる。櫻井は「ここだよ」と言ったが、その声も妙にかすれているのに気がついた。 「あ、いたいた。やっとバグ修正が終わったそうです。これから再処理するらしいので、あと一時間くらいで帰れますよ」  暗い廊下の先から話しながら近づいて来るのは平田由美だ。マスクをして、ずずっ、と洟を啜る由美に櫻井は、 「皆、風邪気味なのに遅くまで申し訳ないね。じゃあ、一時でタクシーを手配しよう」 と、スマートフォンを取り出して『さくらタクシー』へ電話をかけ始めた。 「今日は他のチームも同じ時間に帰れるそうなんで、二台お願いできますか?」  ああ、と頷いた櫻井のスマートフォンの向こうから、さくらタクシーの配車担当の声が聞こえてくる。櫻井が名乗ると電話の声は明るく「櫻井様、毎度ありがとうございます」と、言ってくれた。 「すみません、一時頃に大手町のMビルへタクシーを二台お願いします。ええ、一台はいつもの通り月見里(やまなし)さんで」  電話を切ってスマートフォンを胸ポケットへ仕舞おうとしたとき、櫻井は由美の視線に気がついた。 「……櫻井さんって、タクシー呼ぶとき、すごく嬉しそうな顔しますよね?」 「えっ、そうかな?」  薄いピンクのマスクと前髪の隙間から、じいっと自分を見つめる由美の視線を櫻井は笑顔でかわして、 「もう少ししたらおれも戻るから。平田さんは先に処理監視していて」  はあい、と洟声で返事をして暗い廊下の先へと歩いていく由美の背中を見送りつつ、自分の頬から顎へ手のひらを沿わせてみた。 (嬉しそうって……。おれの顔、そんなににやけているのか?)  櫻井は暗い窓際へと近寄って、ガラスに写る自分の顔を眺めた。やはり最近の無理が祟っていて、目の下には薄く隈が浮いて少しやつれているようだ。なにより、ここのところオフィス内には風邪が蔓延していて、気をつけてはいたもののどうやら自分もその餌食になったらしい。  窓に映る自分の顔にまたぞくりと背筋が震えた。これは本格的だ。酷くなる前に対処をしなければ。  櫻井が窓から離れようとしたとき、ブブブ、と上着の内側でスマートフォンが着信を知らせてきた。 (こんな時間に一体誰が……)  先ほど仕舞ったスマートフォンを再度取り出して画面をタップする。バックライトに浮かんだ発信先の名前に櫻井は少し目を見開いた。 『マサキ、久し振りだな、元気かい?』 『ジェイクか。まあ、なんとか死なないようにやっているよ。でも、何時だと思っているんだ?』 『今? 夕方四時半を廻ったところだろう? ……あ、トウキョウは深夜零時過ぎか』 『もう一時に近いよ』  櫻井は電話の向こう、遠く海を隔てた場所にいる友人を思い浮かべた。  ジェイク・ハワード。以前、ロンドンで仕事をしたときに親しくなったジェイクは、イギリスに本社のあるブリティッシュセブンシーズホールディングス(BSSH)の若き社長兼CEOで生粋の英国貴族だ。一時期は仕事の関係で日本にも住んでいたジェイクは櫻井よりも三つ年上だが、二人は気が合ってよく連絡を取り合っている。 『来月の中頃に日本に行くことになった。そのときに、前から君に提案している話を本格的に進めたいんだが』 『本気なのか? おれは経営の知識も経験も充分じゃないんだぞ? それに今は東京にいないんだ』

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