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第10話

『トウキョウにいない? じゃあ、どこにいるんだ?』 『広島だよ。来月末までの契約で、ある企業のシステム開発中でね。プロジェクトマネージャーが体調不良で急に入院してしまったから、彼の代わりとインドのシステム開発会社とのブリッジSEを兼任しているんだ』 『ヒロシマ? おいおい、MBAまで持っている君がそんな仕事をしているのか? 相変わらず、今の雇い主は君の本来の価値を分かっていないようだな。契約満了など待たずに、私のところに来ればいい。代わりの人材ならうちのシステム部門からいくらでも提供するから、さっさと手を引けよ。来月からでもうちの日本支社に席を用意させる』 『……まあそう言うなよ、ジェイク。だけど、この仕事は途中で抜けようとは思ってないね。なんせ、なかなかいいところなんだよ、広島は』  急に電話の向こうが静かになる。ジェイク? と語りかけた櫻井の耳に低い笑い声が届いて、 『なるほど。ヒロシマは風光明媚な平和都市というだけではなく、マサキが心を寄せる相手がいる、という場所なのか』 『おい、そんなことはひとことも言っていないだろう? ……それにまだ、そんな関係じゃない』 『ほう? マサキにしては珍しい。やけに慎重じゃないか』 『日本人は奥ゆかしいんでね。それに大っぴらに同性愛者だなんて言える社会でもないんだ』 『たしかにそうだったな』  ジェイクがなにかを思い出したように呟いて、会話の間が空いた。今度は櫻井からジェイクに語りかける。 『それよりも君のほうはどうなんだ。あれから彼女との話し合いは進んでいるのか?』 『痛いところをついてくるね。一応、最終段階と言っておこう。日本に行く前には決着がつく』  ジェイクは現在、彼の妻と離婚協議中だ。二年前、急に結婚をし一児をもうけたが、どうやらジェイクには別に想う人がいて、今でもその相手が忘れられないらしい。妻とは離婚で合意はしているが、幼い一人息子の親権について争っているようだ。とくに血を重んじ、一族の長としてハワード家を束ねる彼の父が、未来の後継者たる孫を手放したくはないのだろう。 『私が日本滞在中にヒロシマへ足を運ぼう。実は今まで訪ねる機会がなくてね。短い休暇を楽しみたい』 『わかった。そのときは案内するよ。実はちょうどいい人と知り合ったんだ。彼はタクシードライバーでね、まだ若いけれど英語も堪能だし、物腰も柔らかくて礼儀正しい。きっと彼のガイドなら君も気に入ってくれる』 『それは楽しみだ。でも早く風邪を治したほうがいいね。かなり声がひどいことになっているよ』  スマートフォンの向こうからでも自分の掠れ声を指摘されて、櫻井は苦笑いでジェイクに礼を言った。  電話を切って、缶の底に残ったコーヒーを飲み干すと、「櫻井さぁん」とまた自分を呼ぶ由美の声が暗い廊下に響き渡った。 ***  ゴホゴホ、と何度か激しく咳き込む。その度に丸山と由美が心配そうにこちらに視線を向けた。 「櫻井さん、だんだん咳が酷うなっとりますよ? 今夜は私たちに任せてもう帰ってください」  やっとマスクの外れた由美の台詞に、今度は由美から風邪を引き継いだ丸山が大きな白いマスク姿でコクコクと頷いた。  ジェイクとの深夜の電話から二日、どうやら本格的に体調を崩したようで夕方から咳が酷くなってきている。 「あとはテスト結果を確認するだけじゃし、スケジュール遅れも解消してきたけえ、早めに帰って明日は病院に行ってください」  早く、と言っても、もう夜の十時はとっくに過ぎている。市販の風邪薬は服用してはいるが、まったく効く様子がない。たしかに病院で診てもらったほうが良いだろう。 「丸山くんも復帰したし、うちらだけで大丈夫ですよ、ねえ? 丸山くん」  厚いマスクの下で、はい、と返事をした丸山の声が籠っている。先週の初めからオフィスを蔓延した風邪は誰彼構わず容赦なく襲いかかり、とうとう櫻井が最後の犠牲者となってしまった。  櫻井は腕時計を確認した。この時間ならば電車で余裕に帰れるが、先ほどから背中を這う悪寒に駅に向かうことすら困難に思えた。  丸山から予備のマスクを貰い、帰れ帰れ、と大合唱の二人に櫻井は苦笑いをすると、スマートフォンの画面にさくらタクシーの電話番号を表示させた。

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