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第12話

「やめてください!」  震える声で優弦が抵抗した、そのときだった。 「あっ、ちょっとっ、アンタ!」  男の部下の声と同時に、助手席の窓から頭を突っ込んでいた男の上半身が勢いよく車外へと引きずり出された。車の天井に頭を強かにぶつけて、痛ぇっ、と男は叫んだが、そのまま歩道に放り投げられて、運転席からでも男が地べたに尻餅をついている様子がうかがえた。 (一体、なにが)  優弦は慌てて運転席から出ると車の前から廻り込んだ。歩道で揉めている男たちへと近寄って行くと、その中に知った顔を見つけて驚いた。 「えっ? 櫻井さん!?」  尻餅をつく男の襟首をむんずと掴んで立たせた背の高い男は、白いマスクで鼻から下が隠れているがたしかに櫻井だった。少し遠巻きにして二人を見ているのが、尻餅男の部下たちだろう。櫻井は男の鼻先近くまで顔を寄せると、口を覆っていたマスクをずらして、 「なにをしている。このタクシーはおれが先に予約していたんだ」  低くかすれた声が地を這うように響く。急に冷たい風が吹き込んだように皆、その場に凍りついた。櫻井は胸ぐらを掴んだ男の目の前で、激しく咳き込んだあと、 「こっちはこの通り体調悪くて早く帰りたいのに、来てみればこの人に乱暴狼藉働いてるじゃないか。この人はな、おれの親しい友人なんだ。きさま、彼になにをした?」  櫻井のあまりの気迫に男の酔いがやっと醒めたようだ。男の部下たちもハッと我に返って、課長行きますよ、と男の腕を慌てて取って立ち去ろうとした。優弦と櫻井にしきりに謝りながら三人の酔客がいなくなると、優弦は櫻井の元に駆け寄った。 「櫻井さん、あの……」  櫻井は優弦の顔を見て、急に顔を逸らすと大きなくしゃみをした。そしてマスクでまた顔を覆うと、 「月見里さん、怪我は? 大丈夫?」  ずずっ、と洟を啜りながらも、優弦を心配して櫻井が問いかけてくれる。優弦はその嗄れた声に胸が大きく鼓動するのを感じて、 「お、おれは大丈夫です。助けてくださって、ありがとうございました」  その場で頭を下げ、見上げるように櫻井に視線を沿わせると、 「いやあ、初めて聞いたな。月見里さんは自分のことを、おれ、っていうのか」  彼はとても優しい瞳で優弦を見つめていた。その目にまたドキンと胸が打ったとき、げほげほと櫻井が咳き込み始めた。 「櫻井さんこそ大丈夫ですか? 今夜は平田さんたちは?」  優弦は思わず櫻井に近寄ると、丸めたその広い背中を手袋越しにさすさすとさすった。なんとか咳が治まって、櫻井は涙の滲んだ赤い目で恥ずかしそうに、 「風邪を引いたみたいでね、今夜は皆に早く帰れって追い出されたんだ」 「そうでしたか。それなのにあんな無茶をして……」 「君が傷つけられると思ったら、勝手に体が動いていたよ。あんな危険な目に会うなんて、仕事とはいえ、君のことが心配だ」   マスク越しの隠った声なのに、今夜の櫻井の発する言葉はやけに優弦の胸を跳ねあげる。優弦はそれを櫻井に気づかれないように、 「早く車に乗ってください。すぐにご自宅までお送りしますから」  返事の代わりに、ふう、と櫻井が一つ怠そうに息をつく。マスクを透して吐き出された息が、冷たい夜の空気の中でも白く靄を作った。 (もしかして熱も出ているのか?)  二人して車へと歩き始めたが、どうも櫻井の体調はどんどん悪化しているようだ。ふわふわと足元が覚束ない様子で、きっと優弦を酔客から助けるのにも一杯一杯だったに違いない。  今にもよろけそうな櫻井に優弦は肩を貸した。大きな櫻井はズシリと重かったが、それよりも厚いコートや自分の制服越しなのに櫻井の体が発する熱量が気になって、優弦は車の後部座席に彼を座らせると急いで車を発進させた。

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