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第14話

 起きようとした肩を柔らかく押さえられ、櫻井がまた横たわったのを確認すると優弦は椅子に座り直す。彼の今の姿はタクシー会社の濃紺の制服ではなく、シャツの上にセーターを着た私服だった。 「この点滴が終わったら帰ってもいいそうなので、ご自宅にお送りします」  んん、と咳払いをした。ずいぶん喉の痛みが薄れている。櫻井はゆっくりと口を開いて、 「仕事は……、まさか途中とか?」 「いえ、ちゃんと終わらせてきました。今日は朝五時が帰庫時間だったんです」  と、いうことは、今は早朝五時過ぎということだ。 「面目ない。月見里さんに迷惑をかけてしまった。それにもしもインフルエンザだったら……」 「インフルエンザではないようですよ。櫻井さん、ここのところ無理をして体力が落ちていたんじゃないですか? それにさっきはおれも助けて頂いたので、これでおあいこです」  まだ口調は丁寧だが、自分のことは、おれ、と言っている。少しは距離が縮んだかと、パイプ椅子に腰かけた優弦に視線を向けると、目があった優弦が、ふふっと小さく笑った。そのはにかんだ笑顔に浮かんだ左の泣きぼくろが、不思議と艶っぽく見えた。たしか、目尻の横にほくろのある人は恋のトラブルに巻き込まれやすい、と誰かから聞いたどうでもいいことを櫻井は思い出した。 「あ、点滴が終わりましたね」  優弦が椅子から立って看護師を呼びに行く。制服ではわからなかった少し華奢な後ろ姿に、櫻井は邪な目で彼を見ていたことを反省した。 (あー、ここ三日分くらい寝溜めしたぞ)  今度はすっきりと目を覚まして天井を眺めた。ここは紛れもない自分の仮の住み家だ。病院での点滴が終わってから、営業用のタクシーではなく、自分の車だという優弦の軽自動車に乗せられて、櫻井はマンスリーマンションまで帰ってきた。  薬で熱を下げているとはいえ、まだ足元は覚束なくて、やはり優弦に支えられて部屋まで送ってもらった。部屋に入り、ベッドまで介添えをしてくれた優弦は、 「汗をかいているから着替えてください。ちょっと失礼しますね。……冷蔵庫空っぽじゃないですか。なにか買ってきますから部屋の鍵を借りてもいいですか?」  優弦は世話を焼いてくれ、ベッドにふたたび横になったあとも、小さく部屋の扉が開閉する音が何度か聞こえていた。 (本当にこの街で、彼に逢えてよかった)  あのままだったら、きっと今でも高熱に苛まれながら、ベッドにうずくまって震えていただろう。独りの暮しには馴れてはいるが、体調を崩したときはさすがに心細くもなる。おまけに今は、本来の自分の住まう街ではない。この街に来てからマンスリーマンションと職場との往復しかしていないから、近場の医療機関など知るよしもなかったのだ。 (彼はどうしたのかな)  見える範囲を探ってみたが、優弦の姿はない。  喉の渇きを覚えて櫻井はゆっくりとベッドから起き上がった。まだ後頭部に鈍い痛みがあるが、一時期よりはかなりましになっている。それに空腹も気になった。昨夜の夕飯のときから気分が優れなくて、なにも食べていないのを思い出す。  櫻井は掛け布団を剥ぐってベッドから床に足を降ろした。そのとき、足先に温かいものを踏んだ感触がした。視線を落とし、目の前の床に転がっているものに、えっ、と息を呑んだ。 (や……、月見里さんっ!?)  フローリングに申し訳程度に敷いてあるラグの上に優弦が倒れている。いや、これは横になって寝ているのか?  櫻井の寝ていたベッドに背を向けて横たわり、ダッフルコートで体を覆い、膝を抱きかかえるように折り曲げて優弦は寝息を立てていた。  櫻井はそっとベッドから抜け出ると、寝ている優弦の傍に膝をついた。そして、その寝顔を静かに覗き込む。  額にかかるのはさらりとした黒髪で、カーテンの隙間から射し込む光が艶やかな髪に輪をつくっている。その前髪に見え隠れする眉は綺麗な弓形。閉じた瞼を飾っている長い睫毛がときたま、ぴくりと細かく動いた。  鼻は小ぶりのわりに筋が通っていて、頬は触れたら柔らかそうだ。少し開いた唇はふっくらとしていて薄桃色だ。  そしてなによりも、左の目尻の下にある小さな泣きぼくろ。  櫻井はしゃがんだまま、しばらくじぃっと優弦の寝顔を眺めた。すると、先日交わしたジェイクとの会話が脳裏に浮かんだ。  ――マサキが心を寄せる相手。 (そうなんだよなあ。この顔、ものすごく好みなんだよ……)

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