21 / 78

第21話

「おれのところに身を寄せても、アイツらみたいにいらん噂をする奴はあとを断たんけぇ。でも、短い間とはいえ家族として暮らしとったんじゃから、おれは優弦を守っちゃろうと思うとる。なにかあったらおれや親父に必ず連絡するように、あんたからも優弦に()うてくれんじゃろうか」  優弦はああ見えて頑固者じゃけぇの、と佐川が頭を下げた。 (彼を嫌っているどころか、とても心配しているじゃないか)  他人の噂話がどれほどくだらないものか再認識させられる。真っすぐにこちらを見つめる佐川の視線の中に、優弦を弟として純粋に思っている感情を櫻井は受け取った。櫻井は佐川にもう一度、右手を差し出す。今度は戸惑いながらも、佐川はぶ厚く荒れている手で櫻井の右手を力強く握り返してくれた。 ***  櫻井を彼の住むマンションへと送り届ける。助手席の櫻井はいつものタクシーチケットではなく、今日は普通に運賃を支払った。それを受け取り、釣り銭を準備していると急に櫻井は優弦に質問をした。 「タクシーって一日貸し切りできる?」 「できますよ。観光のお客様とか利用されますね。時間制で料金が決まっています。あ、でも、高速料金や燃料代、駐車場代などは別途お支払い頂きますけれど」  ふうん、と櫻井がなにかを考え込んで、 「実は来月、おれの友人が広島に来るんだ。彼は英国人で一時期は日本に住んでいたけれど広島は初めてらしくて。それで、そのときに君に観光案内をお願いできないかな、と」  櫻井の突然の申し出に優弦は小さく驚いた。さくらタクシーはたしかに観光タクシー事業もしているが、小さなタクシー会社だから利用客はほとんどいないのだ。 「あの、おれでいいんですか?」  えっ? と聞き返す櫻井に優弦は少し頬を赤らめて、 「観光案内と言っても、おれはちゃんと勉強していませんし、それに櫻井さんの大切なご友人の気分を害するようなことにならないかと……」 「あれだけ流暢にクィーンズイングリッシュを話せるんだから大丈夫だよ。それになにも、プロのガイドのようにきっちり名跡を説明して欲しいってわけじゃないんだ」  はあ、とますます怖気づく優弦に、櫻井はにこにこと笑って、 「でもたしかに急に案内しろって言われても戸惑うよね。というわけで月見里さん、次の土曜日に予行練習してみない?」 「予行練習、ですか?」  制帽の下の琥珀色の瞳を丸くして優弦が首をかしげた。 「そう、おれがこのタクシーをチャーターするから、どこか遠くに行ってみよう。そうだな、宮島や呉、岩国にはもう行ったから、尾道、なんてどう?」 「ま、待ってください。実はおれも尾道は行ったことがないんです。とても櫻井さんを案内なんて……」  広島に住んでいるとはいえ、優弦の家は西の端に近く、尾道は反対の東側だ。本当にちょっとした小旅行になる。櫻井を現地に連れていくことはできるが、満足な案内なんて到底無理だ。  しかし、優弦の返事に櫻井は笑顔を深くして、 「それは好都合だ。二人でいろいろ観て廻ろう。君と同じものを観て、同じ感動を味わうだけでもとても楽しそうだ」  櫻井の率直な物言いに、う、と詰まってしまう。 (……なんだか、これはまるで……)  恥ずかしくてまともに櫻井の顔を見ていられない。それでもおどおどと泳がせた瞳が櫻井と合うと、もう優弦は彼から目を離せなくなっていた。 「じゃあ、土曜日は朝から予約ということで。そうだ、当日の細かい予定を連絡したいから、君の個人の電話番号を教えてくれるかな?」  前に交換した名刺には当然、個人の電話番号なんて書いていない。スマートフォンを取り出し、準備をしている櫻井の愉しそうな様子に少し圧されながらも、優弦は自分のスマートフォンを制服の胸ポケットから出すと、櫻井のものとつき合わせた。 (今朝は雲が厚いな)  優弦は冷たい潮風を頬に受けながら、いつもの橋の上の歩道で海を眺めている。  もうすぐ太陽が昇ってくる。しかし、これだけ空を厚い雲が覆っていると、朝日は海面に届かないだろう。 (でも上空の風に雲が流されているから、もしかしたらあれが見られるかもしれない)  ふう、と白い息を吐き、両手をダッフルコートのポケットに突っ込んで欄干に持たれて朝日を待つ。ときどき、目の前を轟音とともにトラックが横切る。それでも優弦は視線をどんよりとした暗い海に向けていた。

ともだちにシェアしよう!