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第22話
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面に表示させたのは電話帳だ。そこに登録されているのはスクロールしなくて済むほどの件数しかない。それに一件、新しい連絡先が増えた。まだ目に馴染まない電話番号が少し気恥ずかしい。「櫻井雅樹」と表示された名前の文字が、やけにはっきりと画面に浮かんでいる。
(まったく、不思議なひとだな、櫻井さんは)
整った相貌は一見すると近寄りがたく感じる。なのに、彼から醸し出される雰囲気は明るく朗らかで力強く、安心感を与えた。由美や丸山が慕うのがよくわかる。きっと彼は面倒見もいい兄貴肌なのだろう。
彼の言動から優弦を気に入ってくれているのもわかってはいるのだが、これ以上ぐいぐいと近寄られるのも問題だ。今までも贔屓にしてくれた乗客はいたが、ほんの少しでも優弦に気のある素振りを見せた途端に予約を取り次がないように配車センターに依頼した。配車センターの担当者には川本の妻もいて、優弦の性格も知っているからしつこい客も上手くあしらってくれている。本当ならば櫻井もそのひとりに入るくらいなのだが、なぜか今のところ彼を拒絶する気にはなれなかった。
(どうしてだろう。彼が……どことなく似ているからか……?)
すう、と目の前が明るくなる。物思いに耽っていた意識を戻して、広がる海の景色に視線を移す。いつの間にか太陽は対岸の島の尾根から空へと昇り、厚い雲の隙間から眩しい光が真っすぐにいくつものスポットライトとなって海面を照らしていた。
(見えた。綺麗な薄明光線 だ)
灰色がかった海に金色の光が射す。波間には牡蠣筏 が整然と並び、小さな船が水面を走っていた。その光景にふと、優弦は昔のことを思い出した。
流川でホステスをしていた母が再婚したのは、宮島沖で牡蠣の養殖を生業としていた佐川の義父だ。優弦の二人目の父だが一人目は顔も知らない。ホステスを辞めた母と義父の元に行ったのは優弦が小学三年生の頃だ。そのときに優弦には年の離れた義兄ができた。
優弦の母は奔放なひとで、物心ついた頃からいつも小さなアパートには違う男を連れ込んでいた。中には優弦に暴力を振るう男もいたが、佐川の義父は優弦を殴らないひとだった。寡黙だが優弦のことを可愛がってくれて、義父とよく似た気質の義兄も実の弟のように優弦に接してくれた。
母は田舎の退屈で閉鎖的な環境に慣れなくて、半年もせずに佐川の家から飛び出した。彼女はそのとき、優弦を置き去りにした。まったく血の繋がりのない優弦を義父は追い出さなかった。そのまま優弦は佐川家で暮らすことになった。
再婚したといっても母は籍を入れていなかった。だから優弦は月見里のままだ。たった半年しかここにいなかったのに母の評判はかなり悪く、優弦のことも受け入れてくれない人もいた。
成長するにつれ優弦の顔は母によく似てきた。そして母譲りのこの容姿は他人を妖しく誘うのか、自分の意思とは関係なく周りの男たちを惑わして、塾帰りの夜道や学校で危険な目に遭うことが度々起こった。そのたびに義父や義兄は助けてくれたが、あとに残るのは下品な噂と、こんな自分への嫌悪だった。
学校でいじめられて泣くたびに、義兄は優弦を船に乗せて海へと連れ出してくれた。
「あんな奴らのいうことなんか無視しとれ。おまえは母ちゃんとは違うんじゃ。おれと親父と家族じゃから、おまえはおれが守ったる」
義兄は日焼けした顔で笑って優弦の頭をがしがしと撫でてくれた。そして、
「ほれ見い、優弦。雲の間から太陽の光が漏れてきとるぞ。まるで光の柱が海にささっとるみたいじゃな。あれはな、薄明光線、別名、天使の梯子ちゅうんじゃと」
そのときの海の輝きと無骨な義兄の笑顔は優弦の脳裏にいつまでも留まった。思えばあれが初めて、義兄に仄かな想いを抱いた瞬間だった。
その後、義兄は結婚し、優弦も行方知れずだった母が迎えに来て、中学校を卒業すると同時に東京で暮らし始めた。義兄への邪な想いが膨らむことが怖かったのと、東京のような雑多な人が行き交う街ならば、自分の居場所もあるかもしれないとも思ったからだ。
(でも、結局、おれは東京から戻ってきてしまった。そしてまだ、あの人を忘れられないでいる……)
義兄に助けられ、広島に連れ戻されなかったら、今頃どうなっていただろう。まだ、あの街で傷つけられながらも自分を捨てた彼を待っていただろうか……。
スポットライトに光る海とは反対に暗く沈んでいく気分を、手に持っていたスマートフォンの振動が引き戻した。滅多に来ない着信に驚いて画面を見ると、そこには櫻井からのメールが届いていた。
――おはよう。仕事、お疲れさま。昨日はありがとう。尾道の件、できればチャーター料金を詳しく教えて欲しい。それではゆっくり休んで、いい夢を。
(……本当に変わったひとだ)
優弦はポケットにスマートフォンを仕舞った。ほう、といくぶん薄くなった白い息をついて、橋を下っていく。少し冷たさの和らいだ潮風の中、優弦は自分の口元が緩んでいることに気づいてはいなかった。
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