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第24話
安いと言われて優弦は驚いた。今日のチャーター予定は十時間。さくらタクシーの貸切料金表では四万五千円。もちろん、高速料金、燃料費などの諸経費は別途請求だ。それを安いと言える金銭感覚の違いに、さすがは勝ち組、などと少しだけ卑屈になってしまった。
「おれも貸し切られたのは初めてですよ。櫻井さんは来月、いらっしゃるお客様のためにとは聞きましたけれど、ちょっと思いきったことをするなと正直思いました」
「広島に来てからずっと忙しくてね。遊びに行けない代わりに色々とお手当てが貯まったんだよ。だからたまにはこんな贅沢もいいかなって心境なんだ」
優弦はなんとなく櫻井の気持ちがわかった。ふふっと笑って熱いカフェラテのカップを口元へと持っていく。ふうふうと冷まし、少し啜ってコクンと飲みほすと、目の前の櫻井が優弦の様子をじっと見ていることに気がつく。
(なんなんだ、朝から)
優弦は照れ隠しに笑いかけて、少し視線を外した。朝、櫻井を車の助手席に乗せてからずっとこうだ。ふと気がつくと彼からの視線を感じる。
楽しげにはしゃぐ由美たちの話に応対しているときも、高速道路の本線に合流するときも、前のトラックを追い越そうと車線変更したときも。
櫻井はハンドルを握る優弦の横顔をじっと見つめて、そしてそれに気づいた優弦と視線が合うと、爽やかに微笑み返すのだ。
(どうしたんだろう……。兄さんの牡蠣小屋に連れていってから、なんだか櫻井さんが変だ……)
それを思い出すとじわりと不安になる。あのときは義兄とは大した話はしていないと櫻井は言ったが、もしかしたら自分が広島に帰ってきた経緯を聞かされたのかもしれない。
(いや、兄さんは余計なことは他人に言わない。ましてや、血が繋がらないとはいえ、一時期は身内だった者の恥など)
川本や今の職場の人たちは優弦の本当の姿を知らない。決まった人と、ずっと顔を会わせなくても済む仕事としてタクシードライバーを選んだのだ。
だから櫻井とこうして接するのは意外なことで、でも、それが心地よくなってきているからたちが悪い。
あくまで彼は客だ。深入りして失望されて気持ち悪がられる前に、きちんと一線を引こうと肝に命じていた。それなのに……。
「疲れたら遠慮なく言って。別に急ぎもしない気ままなドライブなんだ。時間超過してもオッケーだよ。なるべくたくさん、休憩を取るから」
優弦と櫻井の住んでいる廿日市 から尾道までは高速道路で約二時間。途中で由美たちを拾っても大した運転時間ではないのに、櫻井は優弦をいたわってくれる。
にこり、と笑いかけられるとドキンと心臓が大きく打った。その眩しい笑顔に見惚れてしまい、思わず手からカップを落としそうになった。
――カチャンッ!
「あっ!」
上手くカップは皿の上に置けたが、なかのカフェラテが跳ねて優弦の手を濡らす。優弦が手を伸ばすよりも早く、櫻井はテーブルの上の紙ナプキンを何枚か引き抜くと、躊躇なくカフェラテで濡れた優弦の右手をつかんで、
「火傷は? 熱くなかった?」
左手で手首を掴まれ、右手のナプキンで丁寧に拭われる。
「すみません、もう冷めていたから大丈夫……」
つけ根から先へと一本ずつ、優弦の指に丁寧にナプキンを滑らせる櫻井の手は、しっかりと節があって少し厚みがある。長い指先の綺麗に調えられた爪を見て、頬が、かぁっと熱くなった。
「袖口とか濡れなかった?」
「……は、はい、あの……、もう自分でやります、から……」
そう? と言って櫻井の手が離れていく。離れ際、櫻井の指先が優弦の右手の甲をすぅ、と滑って、優弦はビクリと素早く手を引くと左手で右手の甲を包んでしまった。
急に手を引いたことを不審に思われなかっただろうかと、櫻井をちらりと見たが、彼の目は相変わらず笑みを留めている。
気まずさに残っているカフェラテのカップへとふたたび手を伸ばしたとき、ドンドン、と窓を叩く音がして、優弦はまたカップを倒しそうになった。慌てて音のしたほうへ顔を向けると、そこには大きな紙袋を下げた由美が満面の笑顔でカフェの窓ガラスの外から手を振っていた。
「もう食べ終わったのか。丸山くんも、もっと頑張ればいいのに残念だな」
椅子から立ち上り際の櫻井のため息混じりの呟きに、えっ、と聞き返してみる。
「なんでもないよ。じゃあ、そろそろ行こうか」
櫻井は、空になったカップを乗せたトレーをひょいと持ち上げると、優弦に爽やかに笑いかけた。
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