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第28話
「尾道水道 っていうのか。なんだか大きな川みたいだな」
「川?」
「ちょっと海に見えないなって。ほら、おれが熱だして倒れたときに見た夜の海の方が、らしいよ」
(はつかいち大橋から見た満月の夜の海の光景……)
たしかにあの夜は珍しく雲もなく、銀色の月の光が静かな波間に降り注ぎ、島々を照らし出して幻想的な景色を作り出していた。
「でも、ここからの風景もとても綺麗だ。おれは海のないところで育ったのになんだろうな、とても懐かしい匂いを感じる」
春はまだほど遠く、潮の香りをのせた風は頬を冷たく撫でているが、優弦と櫻井はしばらく並んで展望台からの景色を目に焼きつけた。
緑色の急な山肌に建ち並ぶ古い寺院や民家の屋根。小さく聴こえる列車の走行音。そして対岸の島に渡る船はよくできたミニチュアのようだ。
空の色が映っているのか、それとも逆なのか、仲良く色を分けた空と海の青が眩しくて、優弦は瞼を細めた。
「月見里さんは海が身近にあるから、こういう景色は見慣れているんじゃない?」
「そうですけれど、見慣れるなんてことはないです。いつ見ても違いがありますから」
「へえ、そうなのか。小さな頃から海が好きだった?」
「ええ。幼い頃、泣くとよく兄が海を見に連れて行ってくれました。船舶免許を取ったら父の船を借りて、おれを乗せて沖の牡蠣筏まで。……太陽や月の光を受けて輝く水面を見ていると不思議と気分が落ち着くんです。嫌なことも悲しいことも忘れられて……」
そこまで言って我に返る。今、自分はなにを口走っていた? 心の内を他人に晒してもなにもいいことはない。優弦は慌てて話題を変えようと、
「きっと、対岸の向島からこちら側を眺めても綺麗なんでしょうね」
「ああ、そういえば平田さんが言っていたな。夕方帰る前にフェリーに乗りたいって」
そのとき、櫻井がダウンジャケットのポケットを探ってスマートフォンを取り出した。画面に親指を滑らせていたら、その眉根に小さく皺を寄せて、
「……もう平田さんにおれたちがいないことがバレたらしい。不審がって彼女が探しているそうだよ。まったく、丸山くんも、もう少し本気を出してくれたらいいのに」
そしてさらに、
「平田さんは当初のルートで探しているようだ。こっちはかなり先行しているけれど、いつショートカットされるか分からないから途中で二人を巻かなきゃいけないかもな」
丸山の恋の後押しのためとはいえ、櫻井は積極的に優弦と二人で行動することを選択してくれている。
「じゃあ、おれたちはここから下 るか」
櫻井が手を伸ばして優弦の肩に触れた。それが本当にさりげなくて、優弦はあとからこの展望台にきた観光客を気にする間もなかった。
櫻井と一緒に千光寺公園から続く文学の道へと足を運んだ。多くの文豪、詩人を魅了した、その風景を望みながら、途中の句碑や彼らの息遣いがまだ残る建物を探訪する。
彼らの残した一文を目にして、櫻井がその言葉を諳 じるたびに、その低く優しい響きが優弦の鼓膜の奥に入り込んで、なぜか背筋がうずうずした。
立ち寄った千光寺でおみくじを引くと、「すごいね、月見里さんは大吉?」と、小さな紙を覗き込まれる。そこでも右半身に体を寄せられて、櫻井の体温がダッフルコートを通じてもはっきりと感じられた。
「なになに? 願い事、『思い通りになる、早ければ吉』、待ち人、『おそけれど来る』 ……恋愛がすごいな。『この人こそ幸福を与えてくれる』、か。さすがは大吉」
「櫻井さんのは、なんて書いてあったんですか」
「ああ、おれは小吉。あまり良いことは書いてないな」
櫻井は自分のおみくじの内容を優弦に見せることはせず、すたすたとその場を離れて沢山の紙が結わえられている細い鉄線に括りつけた。優弦もそれに倣って櫻井のおみくじの隣に大吉の紙を括った。
千光寺をあとにして、もう山の中腹ほどまで下って来ただろうか。ふと、櫻井が立ち止まり、またスマートフォンを取り出すと、
「早いな、彼らは今からここへ降りてくるようだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「どうも、丸山くんの根性はここまでのようだね。平田さんはかなりの勢いでおれたちを探している。もしかしたら、もうすぐ後ろに……」
そのときだった。しっ、と優弦の唇の前で指を立てた櫻井が耳をすませて、
「……、聞こえた?」
「……、はい、はっきりと櫻井さんを呼ぶ声が……」
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