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第29話

 ――――さぁくらぁいさぁぁぁん。  優弦と櫻井が驚きで顔を見合わせる。櫻井は、行こう、と優弦を急かして坂道を下り始めた。優弦は櫻井についていきながら、 「もう平田さんたちと合流したほうが……」 「いやだね。せっかくここまでお膳立てしたんだ。なにがなんでも丸山くんには、平田さんをものにしてもらうっ」 (どうしてそこまで丸山さんに肩入れするんだろう)  息が上がり始める。今日はなぜか走ってばかりだ。前を行く櫻井の背中と引き離されそうになるが、優弦の足も覚束なくなってきた。  ぜぇ、と呼吸音が濁ってきたところで、前を行く櫻井がいきなり振り返ると、「こっちだ」と、優弦の二の腕を掴んで引き寄せた。強く腕を掴まれたままで、細い入り組んだ路地へと連れ込まれる。ときどき急な階段につまづきながら、優弦の目の端に奇妙なオブジェが流れていく。 (あれは、猫?)  通り過ぎたオブジェをもう一度確認したいと少し後ろに顔を向けると、今度は先ほどよりも鮮明に由美の声が聞こえてきた。 「櫻井さんっ、こっ、声がかなり近づいてきましたよ、っ」 「わかってる! 一度隠れてやり過ごそう」  櫻井は目についた脇道へと入り込んだ。そのまま古い民家の軒先を抜けて、奥へ奥へと進む。やがて道は行き止まりとなり、櫻井は草木の繁みに体を埋め込むようにしゃがみ込んだ。  優弦も、掴まれていた二の腕を強く引かれて前へとつんのめる。転びそうになって短く声をあげると、櫻井は素早く手を広げて、体勢を崩した優弦をかばうように抱きとめた。  地面に突いた膝に痛みが走る。でも、それよりも優弦は、自分の額を櫻井の肩に強く押しつけていることに動揺した。  早く離れようと咄嗟に櫻井の胸に手を突いた。厚いダウンジャケット越しでも、しっかりと硬い胸筋の感触にびっくりする。 「すっ、すみませ……っ」  慌てて立ち上がろうとしたが、櫻井は手を離してくれない。それどころか逆に、肩を掴んでいたその腕は背中へと廻されると、優弦の体は櫻井の腕のなかに絡め取られた。 (いったい、なにが起こって……)  今の状況が理解できない。優弦が声をあげようとすると、「静かに」と低く耳元で囁かれた。  心臓が大きく脈打っているのがわかる。肩口に押しつけられた口や鼻が息苦しい。なんとか顔を横にして呼吸をすると、吸い込んだ空気とともに櫻井の体臭が鼻腔に流れ込んでくる。それは、彼の愛用する香りに微かに汗の匂いが混ざり合い、優弦は呼吸をするごとに、だんだんと自分の胸の動悸が早くなるのがわかった。なんとか動悸の元を断とうと呼吸を止めてみる。ぎゅっと目を閉じ、赤い顔をして肩を震わせると、櫻井が優弦の異変に気がついたのか、背中に廻した腕の力をゆるめくれた。  優弦は、もぞりと体を動かして、わずかでも櫻井との隙間を作ろうとした。 「あの……、櫻井さ……」 「うごかないで」  離れることは許さないとばかりに、櫻井の腕にまた力がこもる。それどころか、優弦の左肩に顎までのせて、ふう、とひとつ息をついた。 (うわ……)  櫻井の吐息が耳たぶにかかり、さらに胸が跳ねあがった。温かな息がうなじを沿って後ろ髪を揺らす。優弦は動くこともできず、息を殺して身をすくめていた。  櫻井に自由を奪われてどれくらい経っただろう。それはわずかな時間なのだろうが、とてつもなく長く感じた。大きな手にひらに背中が覆われている。今にも皮膚を破って飛び出しそうな心臓の鼓動が、気づかれそうで落ち着かない。  それでもしばらくすると、地面についた両膝が鈍く痛みを訴えた。それと同時に、櫻井の吐息の音とは別に、複数の靴音が微かに優弦の耳に届いてきた。思わずびくりと体を震わせると、櫻井も同様に体を揺らす。 「おかしいなあ? ほんまにさっき、チラッと見えたんよ? 櫻井さんの後ろ姿」 (これは平田さんの声だ) 「見間違いじゃあないんすか? たぶん、もう商店街のほうに戻っとるかもしれんし」  自分たちを探す由美の声がやけにはっきりと聴こえる。そのあまりの近さに動揺して、優弦はますます体を小さくした。今の自分の姿を由美たちに見られたくない。羞恥心が頭を一杯にした。  そんな優弦の焦りなど知るよしもない櫻井が、右手を優弦の背中から離すと、なにやらもぞもぞと動き始める。どうもダウンジャケットのポケットを探っているようだ。やがてなにかを取り出した櫻井の右手が、小さく動くのが感じられた。優弦は少しうしろへ顔を動かしてみる。横目にかすかに入ったのは、スマートフォンの画面の上を忙しなくタップする櫻井の親指。そうしているうちにも由美たちの足音が近づいてくる。 「この先って、どうなっとるんかね?」 (ああ、そこの曲がり角を覗き込まれたら見つかってしまう……)  胸を打つ早鐘に堪えきれず、櫻井のジャケットを掴んだ。そのとき、あっ! と丸山の大きな声が響いて、優弦は思わず櫻井の胸に顔を隠すように埋めた。 「櫻井さんからショートメール入りました! 今、平田さんが行きたがっとったカフェを捜しよるって!」  丸山のやけに芝居がかった台詞と、ええっ、と由美の驚きの声が重なる。櫻井は優弦を抱えたまま、親指をさらに画面に滑らせて、 「櫻井さんたち、どうも逆ルートを通ったみたいっす。もう山から下りたって」 「じゃあ、この山道を歩いて登って、ロープウェーで下ったってこと?」 「みたいっすね」 「っ! なんなんよっ! もおっ!」  由美の苛立った声が高く響いた。 「ほら、平田さん早よう行きましょう。この道を降りたとこにある広場には猫がようけおるんすよね? きっとそのうち、櫻井さんたちに合流できると思うけえ」  丸山の弾んだ調子に後押しのされて、二つの足音が遠ざかっていく。しばらくすると、「あっ、猫ぉ。カワイイ~」と、由美の明るい声がして、そして静かになった。

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