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第30話
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耳に届くのが微かな風に揺れる葉擦れの音だけになり、思わず優弦は、はぁ、と大きく息をついた。
「……なんとか上手く巻けましたね」
櫻井の胸を掴んでいた手を慌てて離して、小さく語りかける。櫻井もひと息ついたが、それでも優弦の体から腕を離そうとはしない。片腕で体を抱きしめられ、いくどか櫻井の温かな息をうなじに感じて、優弦がもう一度、口を開きかけたときだった。
「優弦」
ぞくっ――――。
低くかすれたその声に、小さな電流が耳元から背筋へと駆け抜ける。震えに気を取られて櫻井の呟きの意味を、脳が理解する前にもう一度、
「優弦……」
(下の名を、呼ばれた……)
櫻井はゆっくりと先ほどまでスマートフォンを握っていた右手で優弦の左頬を柔らかく包んだ。驚きに大きく見開いた瞳に、焦点があわないほどに櫻井の顔が近づいて、唇に温かなものが押し当てられた。
「――っ、!」
それが櫻井の唇だとわかったのは、何度か軽くついばまれ、下唇を食まれてからだった。驚きに顔を逸らそうとしたが、頬から顎に滑らされた指先に力が籠って動けなくなる。重なる唇から発する水音に急に息苦しさを覚えて、きつく瞼を閉じたのに反射的に口を開いてしまった。
「はっ……、んんっ」
驚きに息を止めていた口から入ってきたのは、新鮮な空気だけではなかった。ふぅ、と温かな吐息と同時に櫻井の舌が差し込まれる。入ってきた舌が優弦の舌先に触れて、反射的に自分の舌が縮こまる。それが喉を塞いでさらに苦しくなると、逃げるように自分から顔の向きを変えた。それでも執拗に、櫻井の唇は優弦の唇を追いかける。
「……っふ、う……ん……ッ」
軟らかな舌が優弦の頬の内側を撫でる。歯列をなぞり、口の中に溜まった唾液を思わず優弦が飲み込んだところで、櫻井がやっと唇を離してくれた。
離れていく櫻井の顔の輪郭がはっきりとしてくる。日本人にしては少し彫りの深いその顔は、もしかしたら異国の血がいくらか混じっているのかもしれない。
いつもはきちんとセットされている髪も今日は無造作に軽く流しているからか、その表情はいつもの見慣れた雰囲気と違って男の色香を帯びていた。
二人でしばらく見つめあう。やがて櫻井は優弦の両肩に手を添えると、また顔を近づけてきた。
(また……、キスされる……っ)
思わず顎をすくめ、ギュッと目を瞑る。しかし櫻井は、予想に反して優弦の額に自分の額をコツンとつけてきた。
予想外の行動に恐る恐る目蓋を開ける。すると櫻井が小さく吐息を吐き出して呟く。
「……ああ、とうとうやってしまった」
溜め息混じりの櫻井の囁きに、優弦の胸がキリリと痛んだ。
(ああ……、おれは気がつかないうちに……)
櫻井は後悔しているのだ。その場の雰囲気に流されて男とキスをしてしまうなんて、なんてことをしたのだと。きっと今、彼は冷静になって悔やんでいるのだ。
(またおれは思わせ振りな態度をとっていたんだ……。だから櫻井さんは……。このひとはこんなによくしてくれるのに、どうしておれはいつも……)
角膜の表面が潤んで、鼻の奥も痛くなる。慌てて櫻井から逃れようとしたとき、優弦の耳に意外な言葉が滑り込んできた。
「好きだ」
その言葉は鼓膜を通り抜けても優弦の頭に届くのに時間がかかった。やっとその意味が理解できたところで、もう一度、
「君が好きだ、優弦」
今度ははっきりとわかったのに優弦は、「えっ?」と気の抜けた返事をしてしまった。そんな優弦をゆっくり引き寄せ、櫻井が腕を背中に廻してくる。正面から抱きしめ、また左の肩に顎を乗せた櫻井が、
「本当はもう少し時間をかけて君を口説こうと思っていたのに。だめだな、こうしていると気持ちが溢れて止まらなくなった」
大きな手のひらが優弦の後ろ髪に差し込まれると、小さな子供に言い含めるようにまた、「好きだよ」と、囁かれた。その告白があまりにストレート過ぎて優弦は思わず、
「……でも、平田さんだって櫻井さんのこと、好きなんじゃ……?」
急に櫻井が体を離して優弦の顔を覗き込む。その表情は驚きに溢れていて、そして、
「平田さんがおれを? 彼女は優弦狙いだろう? だから今日だって無理矢理におれたちについて来たんだと……」
「いえ、どう見たって櫻井さんのほうですよ。おれなんか、逆に邪魔者なんじゃないかって」
そこまで言って優弦はあることに気がついた。
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