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第32話
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もうすぐ広島インターが見えてくる。優弦は左側に車線変更をすると、静かな後部座席をルームミラーで窺った。
あれから由美たちと合流して、海沿いをそぞろ歩いた。そして最後にフェリーに乗り、対岸の向島へと渡ると、海を隔てて拡がる尾道の町並みを眺めた。
迫る夕闇の中、海岸の町や山の中腹に建つ寺院がライトアップされ、とても幻想的な風景が目の前にお披露目されていた。由美が、キレイキレイとはしゃぐ中、優弦は櫻井に誘われてさりげなく由美と丸山から離れると、左手をそっと握られ、町の灯りを写した光輝く穏やかな尾道水道を二人で並んで眺めた。
今、由美と丸山は後部座席で仲良く熟睡している。そして助手席の櫻井も眠そうに欠伸を噛み殺していた。
高速道路から市道に入ると、後ろの二人が目を醒ました。途端に由美が、「お腹が空いた」と言い、「近くに美味しい和風パスタの店がある」と、結局その店で夕食となった。食事も終わり、先に満面の笑顔の由美を、そして次に、由美に告白できずに落ち込んだ丸山を車から降ろすと、櫻井は大きく息をついた。
「やっとお子様たちがいなくなった」
櫻井の本心に優弦は思わず笑ってしまった。
「そうだ。この前の道を通ってくれるかい? あの海沿いの道。今日は月は出ていないけれど、もう一度見たいんだ」
優弦は、いいですよ、と返事をすると、いつもは真っすぐ向かう交差点を左に折れた。きっと以前に走ったときのことは、当時の体調不良もあって記憶が曖昧なのだろう。櫻井は流れる景色を初めて見るかのように追っている。
広島市から廿日市市に移り、目の前に大きなアーチ状の橋が現れた。そこに差しかかると、
「あれは宮島だな。ほかの島の町明かりも、とても綺麗に見えるね」
「櫻井さんは、海のないところで育ったって言ってましたね」
「そうなんだ。廻りを山に囲まれたところでね。親の仕事の都合で日本と海外を行ったり来たりしたけれど、どこも海どころか湖にも関わりがない地域だった。だけど、やっぱり海を見ると懐かしく思えるのは、自分のルーツが島国の人間だからかな?」
櫻井の軽口に優弦は小さく頷く。
「あの夜の満月の光が水面にたなびく光景は素晴らしかった。君はいつもあんなに美しいものを見ているんだね」
あの風景に感動してもらえるなら、もっとたくさんの瀬戸内の姿を櫻井に感じてもらいたい。そう思っているうちに、櫻井のマンスリーマンションへと着いてしまった。
「今日は本当に楽しかったよ」
櫻井はチャーター料金をカードで支払うと、にこやかに優弦に言った。
「おれも楽しかったです。これで海外からのお客様の案内が滞りなくできれば良いのですが」
「それは満点さ。彼は来月の十日から三日間の予定で来るそうだ。その期間は君を貸し切るからね」
はい、と返事をしてカードを櫻井に返す。彼はそれを受け取って財布に仕舞ったが、一向に助手席から降りる気配がなかった。優弦がどうしたのかと思った途端、左の太腿に櫻井の右手が這わされた。
ひく、と息を呑み、触られた太腿へと視線を向ける前に、櫻井の左手が延びてきて右頬を軽く這う。櫻井の顔が近づいて彼の行動の予測がついたとき、優弦は咄嗟に、「駄目です」と、強く拒否の言葉を口にしていた。
「どうして?」
近寄ろうとする櫻井に、優弦は顎を引いて制帽の下に視線を隠すと、
「車内は駄目です。その……、カメラが……」
櫻井は動きを止め、横目でフロントガラスを盗み見た。たしかにガラスの上部付近に小さなレンズがついている。ドライブレコーダーだ。きっと運行中の車内の様子も記録しているのだろう。
このまま押し倒さなくて良かった、と櫻井は思いながら、帽子のつばで顔を隠してしまった優弦に問いかけた。
「今日の仕事はさすがに終わりだよね?」
「いえ。今日はまだ続けます」
「そう。じゃあ、仕事が終わったら、うちに来て」
その申し出に優弦が思わず隠していた視線を上げてしまった。その視線を櫻井は捉えると、
――優弦。君と抱きあいたい。
声にせず、櫻井の唇の動きを拾った優弦は大きく目を開いた。笑いかける櫻井に、
「……でも、乗務が終わるのは明日の朝の四時で……」
戸惑いの言葉に櫻井は、
「いつまでも君が来るのを待っている」
と、囁くと優弦を置いて助手席から出ていった。
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