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第33話
***
午前四時――。
しんと静まり返ったマンションの外廊下で、優弦 はその部屋のドアを前にいまだに心を決められないでいた。
結局、あの別れ際の櫻井の囁きが耳から離れられず、四時の帰庫時間よりも二時間も早く本日の業務を切り上げた。普段はあまり早く帰ってくることのない優弦に、営業所にいた配車担当の社員から、体調が悪いのかと心配されたほどだ。
外廊下に吹きつける風は、まだ身を切るように冷たい。ぶるりと体が震えた。寒さからなのか、緊張なのか、それがわからないまま、優弦は意を決して目の前の小さなインターフォンのボタンを押した。
ドア越しのチャイムがやけに廊下に響いた。いつ、インターフォンから自分の名前を呼びかけられるかと身構えていると、予想に反してすぐにドアが開かれた。
「おつかれさま。来てくれたんだね。さあ、入って」
朝というにはずいぶん早いというのに、櫻井は涼やかな笑顔で優弦を迎えてくれた。軽く頷き、促されるままに室内へと入る。櫻井の脇を通り抜けたとき、揺れた空気の流れに乗って、爽やかな香りが優弦の鼻先に届いた。
背中で小さく鍵が締まる音がする。戸締りを終えた櫻井の手が優弦の肩に廻されると、そのまま両手が前へと延びてきて優弦の体を覆った。左耳の後ろに頬を寄せられ、髪に鼻を埋めた櫻井が、
「良い匂いだ。それに少し髪が濡れているね。もしかしてもう、シャワーを浴びてきた?」
笑った櫻井の吐息がうなじにかかる。彼に自分の浅ましい部分を見透かされたようで優弦は体を固くした。
「嬉しいよ」
ちゅっ、とそのままうなじに唇が這わされる。びくん、と大きく震えた優弦の肩を抱くと櫻井は、「おいで」と、耳元で囁いた。
前にも来たことがある部屋なのに、なぜかすべてが初めて眼に写るように思えた。小さく落とした灯りが照らす部屋の中に入ると、
「なにか飲む?」
「いえ……」
短く返事をしてダッフルコートを脱ごうとしたら、後ろから櫻井が手際よく助けてくれた。
どうしていいのか身の置き所に困って立ち尽くす。そんな優弦の手を取り、ベッドに腰かけた櫻井が「ここに座って」と、言った。優弦は一瞬、逡巡したが、言われた通りに少し間を開けて櫻井の隣に座った。
ギシッと鳴ったベッドの音が部屋の中に響いた。隣り合う互いの体の温度が空気を伝わって感じられる。備えつけのエアコンの送風ファンからの風が自分の髪を揺らしている。そして、櫻井の呼吸音。普段なら気にも留めない小さな音や動きが、今は鋭利に五感を刺激した。
どこを見ていいのか視線も定まらない。緊張して座ったまま、対面の壁を見つめていると、隣の櫻井が優弦のほうへ体を向けて小さく囁いた。
「キス、してもいい?」
耳に届いた言葉に躊躇したが微かに頷く。櫻井の右手が自分に伸びてくる。どうしたことだろう、彼の体を纏うシャツの衣擦れの音でさえ鼓膜を大きく揺らす。
右手が額を掠めて優弦の前髪をかき分けた。定まらなかった視線が櫻井の視線と重なる。彼の瞳は綺麗な茶色だ。なぜかそれが少し残念に思えた。
櫻井の唇がゆっくりと近づいてくる。優弦は反射的に目を閉じてキスを待っていたが、予想に反してそれは唇ではなく額に押し当てられた。そのまま軽く左の眉、閉じた瞼の上にキスをされると、左の目尻の下をついばまれた。
「この泣きぼくろ、好きなんだ。いつもかわいいと思って見ていた」
また唇を這わされる。優弦は薄く瞼を開けて、
「……おれはこのほくろが嫌いです。まるで……」
母のようで、と言う前に今度は唇を塞がれた。ちゅ、ちゅく、と湿った音と下唇を喰まれて体の奥から熱が生まれる。顔の角度を変えて熱心に唇を重ねる櫻井の手が優弦のセーターを捲くりあげて、脇腹を触った。そのくすぐったさに身をよじり、息を詰めると彼は唇を離して、
「温かい。それになんて手触りがいいんだ」
小さなキスを繰り返し、櫻井が優弦のセーターを頭から引き抜いた。外気に晒された肌が粟立つと、
「寒い?」
寒くなんかない。先ほどから身のうちに生まれた熱がじわじわと皮膚の表面へと競り上がってくるのがわかる。優弦が首を横に振ると櫻井は微笑んで、また泣きぼくろにキスを落とした。
櫻井の唇が泣きぼくろから頬、そして左の耳朶に移ると、ふぅ、と吐息を吹き込まれた。ぞくんと震えて思わず、
「ああ……」
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