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第36話
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櫻井との熱い一夜から二週間が過ぎた。優弦はいつもの川沿いの公園脇に車を停めて、営業日報を確認していた。だが、確認とは名ばかりで、その紙面をただぼんやりと眺めているだけだ。
最初に櫻井が言っていた通りに二月の半ばを過ぎると、深夜の大手町のMビル前はタクシーを利用する客が目に見えて減り始めた。櫻井からの深夜の迎車依頼も配車センターに入らなくなり、由美や丸山たちにも会うことがめっきりと減ってきて、優弦は少しの寂しさを感じていた。
仕事では呼ばれる機会が減ったが、代わりに櫻井からは個人的に連絡が入るようになった。彼は優弦の休日を確認し、自分の休みと都合が合うと仮の住まいのマンスリーマンションへと優弦を誘うようになっていた。
(この関係は、恋人同士……、なのだろうか……)
実はあれから、夜に招かれても櫻井は優弦を抱こうとはしなかった。翌朝から乗務のある優弦に気を使っているのか飲酒をすることはなく、近くのコンビニで買ってきた惣菜で夕食を済ませると、レンタルショップで借りてきた映画を視て、日付が変わる前に優弦を部屋から送りだした。
(体の相性が、あわなかった?)
セミダブルのベッドを背凭れにして床のラグに並んで座り、大きくはないテレビの画面を二人で眺める。だんだんと体の距離が近くなり、そのうちに櫻井の手が廻されて自然に互いの肩を寄せ合った。面白い場面には一緒に笑いあい、切ないシーンに涙ぐむと彼は慈しむように優弦を見つめ、あふれた涙を大きな手で拭って、そして優しくキスをくれた。そのあとは頬や耳や首筋に薄紅色の痕を小さく散らしてくれるのに、それから先には進まなかった。
(もしかしたら、あの夜のことを後悔しているのか?)
物思いに耽っていると運転席側の窓を軽くノックされた。窓の外には川本が笑いながら両手にコーヒーの缶を持って立っている。優弦がウィンドウを下げると、
「おつかれ。ほれ、おごり」
「ありがとうございます」
ありがたく受け取ってプルタブを開ける。温かなコーヒーを飲みながら川本と談笑していると、胸ポケットに入れていた優弦個人のスマートフォンが細かく震えだした。すみません、と川本にひと言断って、画面に表示された櫻井の名前を認めると、慌てて耳に押しあてた。
「もしもし櫻井さん? どうしたんですか?」
「ああ、よかった。……優弦、運転中じゃなかった?」
優弦、と呼ばれてドキリとする。スマートフォンから漏れだす櫻井の声が川本に拾われないように、耳元の電子機器を手のひらで包み込んで、
「ちょうど休憩を終わらせて、乗務に戻ろうとしていたところです」
「それならこれから頼まれてくれないか? チャドの住んでいるマンションに来てもらいたいんだ」
すぐにうかがいます、と返事をして通話を終わらせる。残っている缶コーヒーを慌てて飲みほし、発車準備をしていたら、「なんじゃ、また櫻井さんから呼び出しか?」と、川本にずばりと言い当てられた。なぜ判ったのだろうと思いつつも、ええ、と返事をすると、
「ほんまにええお得意さんになったのお。ほじゃけど、あの人らもそろそろ、ここからおらんくなるんじゃろ?」
エンジンキーを回そうとした手が止まる。思わず車道に立つ川本を運転席から見上げると、川本は缶を口元へ押しあてたまま、
「この間、Mビルの前から乗せた客が、そがぁな話をしとったんじゃ。そろそろプロジェクトが終わるけえ解散するだの、東京に戻れるだの。たしか、櫻井さんも東京の人じゃろ?」
急に嫌な予感が胸を覆い始める。優弦は川本に曖昧に挨拶をすると、休憩場所の公園をあとにした。
覚悟はしていたが、やはりそうだった。何度か深夜に来たマンションの前には、まだ日も落ちていないのに、櫻井とチャドが大きなスーツケースに軽く腰をかけて優弦が来るのを待っていた。二人の前に車を停め、エンジンをかけたまま運転席から降りると、「優弦、お疲れさま」と、櫻井がねぎらってくれた。
『もしかして、チャドさん……』
思わず英語で呟いた優弦にチャドが笑って、
『そうなんだ、ボクは今日までの契約でね。これからトウキョウに戻るんだよ』
『そうですか。それは寂しくなりますね……』
トランクを開けてスーツケースを積み込むと、櫻井とチャドは後部座席へと乗り込んだ。櫻井は行先に広島空港と告げて、
『これが最後だとは思いたくはないけれど、思い出話しでもしながら行こう』
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