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第37話

『そうだね、ユヅルには世話になったから。そうそう、前にボクの奥さんがヒロシマに来たときにあのカレーの店へ連れて行ったんだよ! ものすごく美味しいって大興奮でさ。自分でも同じ味が出せるように研究するって! ぜひ君を紹介したかったなあ』  高速道路に入り、空港までの道程の中、車内の空気が湿っぽくならないのはチャドが楽しそうにしているからだ。彼は一旦東京に戻った後、休暇を取ってしばらくインドに帰るという。久しぶりに愛する妻や家族に会えるのだから、嬉しい気持ちがその大きな体から溢れだしているのがハンドルを握る優弦にも感じられた。  広島空港ターミナルビルのタクシー降車場所に滑り込む。車を停め、櫻井たちを降ろすと優弦は運転席から出てトランクから荷物を出そうとした。しかし、前と同じで櫻井とチャドに先に担ぎ出されていた。 「おれはチャドを見送るから、少し待っていてくれる?」 「わかりました。あそこの駐車場で待っています」  櫻井に返事をした優弦の傍にチャドが近づいてきた。そして浅黒い右手を差し出すと、 『短い滞在期間だったけれど、とても楽しかったよ。実はまだ残っている用事もあるんだ。だから、またヒロシマに来る機会もあるだろうし、サヨナラはなしだ』  優弦も差し出された右手を握って、 『はい、次にいらっしゃった際にも、さくらタクシーのご利用をお待ちしています』  寂しさを隠すように笑った優弦にチャドは上体を屈めて顔を近づけると、 『ねえ、いつの間にサクライにファーストネームで呼ばれるようになったんだい?』  えっ、と慌てた優弦に、 『チャド、聞こえているぞ』 『いいじゃないか。この前、ユミたちと行ったドライブからかな? なんだか、サクライが君の名前を呼ぶ声が優しくて少し気になったんだ』 『なにを言うのかと思えば。おれは誰に対しても優しいぞ?』 『よく言うね。ボクはサクライに優しく呼ばれたことなどないよ。……まあ、たしかに彼は優しくて良い男だ。ユヅル、ボクがいないあとはサクライのことを頼むよ』  笑顔を残して、空港のターミナルビルへと向かうチャドと櫻井の大きな背中を見送っていると、胸の奥に小さな不安のしこりが生まれたのを優弦は感じていた。  三十分ほど経って、櫻井が駐車場へと姿を現した。後部座席のドアを自動で開けると、彼は少し苦笑いで車内へと入り込んだ。 「大手町に戻りますか?」 「いや、今日は早いけれど帰宅するよ。マンションまで送ってくれるかな」  空港をあとにして高速道路を一路、西へと進む。夕日はもうずいぶん落ちてきて、山々の稜線が深いオレンジ色にくっきりと浮かび上がっている。先ほどから黙ったままの櫻井の様子をルームミラー越しに窺うと、彼は深く座席に沈み込んで窓の外の流れる景色を眺めていた。その表情は疲れからなのか、それとも友を見送った寂しさからなのか、少し精彩を欠いているような気がして、優弦はマンションに着くまで彼に声をかけることができなかった。  マンション前に車を停めると、いつものように櫻井はタクシーチケットを優弦に差し出した。礼と共にそれを受け取ろうとしたが、白い手袋をした手を掴まれた。 「優弦、今日の乗務は何時(なんじ)まで?」  制帽の下の瞳を覗き込まれる。カッと頬が熱くなり、思わず帽子のつばに隠れて車載カメラのレンズを確認してしまった。その優弦の様子に櫻井もちらりとカメラを見て掴んだ手を離すと、 「今夜、仕事が終わったらうちに来て欲しい」 (誘われてる。あのときと同じように……)  離された手を引き寄せる。肩を竦め、どう返事をしようと迷っても、体の中心に点った種火がじわりと熱を持ち始めている。それは先ほど胸の奥に生まれたしこりなど、簡単に融解させてしまうほどの小さくて激しい熱量。櫻井は優弦の返事を静かに待っているが、注がれる視線は決まりきった答えが返ってくることを確信していた。 「今夜も……、朝四時まで……」 「そう。じゃあ、待っている」  優弦に笑いかけて櫻井はいつもの通りに車から降りた。そして右手を上げると、そのままマンションのエントランスへと消えていった。その広い背中を見送りながら優弦はあの夜を思い出す。あのときだって別れてからは仕事どころではなかった。きっと今夜も、自分はあの夜と同じ行動を取るはずだ。早めに乗務を切り上げて、一旦自宅に帰り、シャワーを浴びながら入念に準備をして、まだ髪も乾ききらないままに彼の部屋の呼び鈴を押して……。 (この関係は……、恋人同士じゃない……)  櫻井のマンスリーマンションから広島市内の繁華街へ向けて車を走らせる。すっかり夜の帳が落ちた瀬戸内の海には、水と陸との境界を示すかのように島々の町の灯りが横一線に並んでいる。運転席から右手に見えていた海の様子は、車を走らせるうちにすぐに都会の街並みを照らす光の集合体へと景色を変えた。その光を瞳に写し、優弦はこの胸に点った不安の正体にすでに気がついていた。 (きっとこれは彼がここにいる間だけの関係だ。そう、あの頃と同じように)  川本から聞いた話とチャドとの別れがリンクする。彼らはこの街に仕事に来ているだけで、それが終わればここからいなくなってしまう。今の櫻井が従事しているプロジェクトがいつ終わってしまうのかをはっきりと聞いたわけではないが、もうそれは遠いことではないように思う。  櫻井は優弦を置いていなくなる。本来の自分の住まう大都会へと戻ると、きっと地方での火遊びの相手のことなどあっさりと忘れてしまうだろう。 (馬鹿だな、おれは。どうしてこんなに進歩のない人間なんだ……。もう、あんな思いは二度としたくはないのに)  もうすぐ自動車専用道路の出口だ。優弦は、きゅっと下唇を噛みしめて頭の中から雑念を追い出すと、目の前の赤信号に気をつけながらブレーキを踏んだ。

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