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第38話

*** 『――。うん、いいね。とてもいい香りだ。――。味も遜色ない。もうすっかり好みの味が出せるようになったね。うまいよ』  褒められて自然と笑顔がこぼれた。かすかに湯気がのぼるマイセンのティーカップから、ベルガモットの香りが漂っている。思えば紅茶なんて、とくに好んで口にはしなかった。けれどいまでは、銘柄によって茶葉を蒸らす時間を変えることも覚えたし、高価な磁器を口に近づけることも躊躇なくできるようになった。  こくんと澄んだ紅色の液体を飲み込んで、鼻腔を抜ける花の香りを楽しんでいたら、手の中のカップを取り上げられた。まだ残っているのに、と少し不満げにひそめた左の目尻に、柔らかく唇をあてられた。  くすぐったいよ、と肩をすくめても、その唇はちゅ、ちゅ、とわざと音をたてて、目蓋や長いまつげ、頬をついばんで耳たぶにまで届くと、また泣きぼくろを挟み込む。そのまま首筋をたどり、鎖骨のうえの薄い肌を舐められたとき、あがる吐息で彼に告げた。 『もう……、時間……』 『ああ、そうだな。まったく、こんな呼び出しは迷惑なだけだ』  隣にあった温もりが離れていく。急に素肌を包むシーツが冷たく感じた。心細さが浮かんでいたのだろうか。瞳を覗き込まれ、あやすようなキスのあとで、 『急用だと言われたが、いつもの業務報告だ。一週間で戻ってくるよ』 (……いやだ) 『帰ってきたら休暇を取って南の島に旅行に行こう』 (……いやだ。いかないで) 『なるべく早く帰るから、それまで良い子で待っていてくれ』 (……いやだ。あなたは帰ってこなかったじゃないか) 『そんなに不安な表情を見せられたら、いきたくなくなるよ』 (いかせたくない。このままそばにいて) 『……、一緒にいこうか。おまえと離れたくないんだ。これからもずっと、二人で――』 (……いけばよかった。あなたとともに。どうして。おれは、どうして……)  かすかに漂う懐かしい香り。手を伸ばせば、温かな皮膚の感触が手のひらから伝わる。その熱をもっと全身で感じたくて、腕を廻して夢中でかき抱いた。 「優弦。優弦、どうした?」  少し焦り気味の声が自分の名を呼んでいる。体を揺さぶられ、尚も名を呼ぶその声を頼りに優弦は、はっと目蓋を開けた。  目の前が霞んでいる。誰かが間近で自分を覗き込んでいる。 (だれ……)  意識が覚醒するのと同時にその顔がはっきりとしてきた。自分と同じように横たわり、じっと見つめているのは櫻井だ。シーツから覗く肩口はなにもまとっていない。優弦はようやく、自分の状況を思い出した。 (そうだ。仕事が終わって、櫻井さんの部屋に来たんだ……)  櫻井が手を伸ばして優弦の頬に触れる。するりと動いた手のひらの(ぬめ)りに、優弦は自分が泣いていたことに気がついた。 「大丈夫か。すいぶん、うなされていたよ」  シーツの擦れる音と同時に、櫻井が優しく優弦を抱きしめる。あの温かな肌の感触が櫻井のものであったことに、優弦は少し胸が痛んだ。心配そうに背中を軽く撫でてくれる櫻井に取り繕うように笑って、その胸に顔を埋めた。 「ちょっと怖い夢をみていました」 「怖い夢? どんな?」 「……テストの点が悪くて、机の引き出しに隠していたのを兄に見つかってしまって。赤点の答案用紙を前に、テーブルの向こうの兄が怖い顔でおれを叱っていたときの夢です」 「ああ、たしかに。君のあのお兄さんに怒られたら、おれも泣きそうになるかもな」  咄嗟についた嘘の夢の話に櫻井が楽しそうに乗ってきて、優弦の心に罪悪感が浮かぶ。優弦はいたたまれなくなって、思わず、 「櫻井さんのご家族って……」  言ってしまって、また優弦は後悔した。こんな話を聞いてしまえば、自分の話もしなくてはならなくなる。発言を取り消そうとしたのに、櫻井はすでに語り始めた。 「おれは両親と妹の四人家族でね。父は外資系企業の社員で、幼いころから家族で父の海外赴任についてまわっていたんだ。母は専業主婦。二つ年下の妹はもう結婚していて、いまは両親と同じ国にいる」  櫻井が腕まくらをしてくれた。優弦はなるべく負担にならないように、櫻井の腕にそっと頭を乗せる。櫻井は優弦の艶やかな黒髪を指先で弄ぶ。だが、それだけ話して櫻井は口をつぐんでしまった。彼は優弦に同じ質問をしてはこなかった。

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