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第39話
(あ……、いつもの香りがする……)
呼吸をするたびに、温められた櫻井の体の香りが漂う。それは優弦に安寧を与えながらも、胸をどうしようもなくざわめかせる。先ほどの夢もこの香りのせいで見てしまったのだろう。
しばらく櫻井の腕のなかで彼を感じた。自分の蕾の奥や、汗やローション、精液に湿ったこの体には、いたるところに櫻井の痕跡が残っている。たしかに櫻井のものだ。なのになぜ、あんな昔のことを……。
「ああ、もう昼前か。腹が減ったな。シャワーを浴びてから食事に出かけようか」
櫻井がベッドから起き上がった。先にシャワーを促されて、優弦は狭い浴室で体内の櫻井の残りを掻き出した。入れ替わりで櫻井が浴室にいる間に、湯を沸かす。濡れた髪をがしがしとタオルでふき取りながら浴室から出てきた櫻井に、優弦はカップを差し出した。
「コーヒーを淹れてくれたのか。ありがとう」
小さなシンクの前で、受け取ったコーヒーカップに鼻を寄せた櫻井の台詞に優弦は耳を疑った。
「うん、いいね。とてもいい香りだ」
(……、え、?)
コーヒーカップを啜る彼の姿が、ぼやけて見える。これは自分の持つカップからの湯気のせいか?
戸惑う優弦に彼は笑いかけると、
『味も遜色ない。もうすっかり好みの味が出せるようになったね。うまいよ』
落ち着いた声とその姿。優弦に笑いかける、……異国の瞳の色。
(うそ……だ。かれは、……いないのに……)
「優弦、あぶないっ」
櫻井の鋭い声と同時に、カップを持つ手を支えられた。どうやら、ぼうっとしていてコーヒーカップを傾けてしまったらしい。櫻井はシンクに置いてあった布巾を手にすると優弦の足元にかがみ込んで、濡れた床を拭き始めた。
「すみません、あの、おれ……」
優弦も慌ててその場にしゃがみこんだ。床を拭きながら、いいよ、と笑顔を返しているのは櫻井だ。彼ではなく、櫻井だ。
(いったい、どうしたんだ、おれは……)
「君に怪我がなくてよかった。それに、本当においしかったよ。優弦はコーヒーを淹れるのがうまいな」
「インスタントにうまい、へたなんてないと思いますけど」
優弦の返しに櫻井が破顔する。その笑顔は優弦の胸をどうしようもなく締めつけた。優弦は立ち上がりかけた櫻井の腕を取ると、その胸に体を預ける。
「優弦?」
「櫻井さん。出かける前に……、もう一度、抱いてくれませんか」
櫻井が目を見開く。その瞳の色は深い茶色。
「せっかく風呂にもはいったのに。いいの?」
頷く代わりに自分から櫻井にキスをした。唇をこじ開け、舌をねじ込む。わざと音をたて、顔の角度をかえながら、濡れて湿った櫻井の頭を抱え込んだ。
櫻井の吐き出す息からコーヒーの匂いがなくなると、彼は力強く優弦を抱きあげてベッドへと運んでいく。乱れたシーツに優しく下ろされ、のしかかってくる櫻井の逞しい体の造りを優弦は大脳皮質に覚えこませる。
(いま、ここにいるのは櫻井さんだ。この重さ、この熱さ、この声、この唇、この手のひら、そして、おれを穿つ硬いもの……。いま、おれを抱いているのは櫻井さんだ)
優弦は高い嬌声をあげながら、懸命に櫻井の存在を取り込んでいった。
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