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第43話
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由美や丸山やチャドがいなくなり、少しの寂しさを憶えながらも月が開けた三月のある日、優弦は本日、来広するというイギリスからの客人を迎えるために後部座席に櫻井を乗せて一路、広島空港へと向かっていた。
「彼は一時期、日本で暮らしていたのだけれどね、そのときは間の悪いことにおれはアメリカだったんだ」
「本当に久しぶりなんですね」
「でも、よく電話もかかってくるし、移動中のトランジットで時間を合わせたりして会っているから、そんなに久しぶりって感じでもないんだ」
さらりと言う櫻井に、日本から出たことのない優弦は関心しきりだ。一度は外国に住めるかもしれない機会もあったが、臆病な自分はその機会をふいにしてしまった。
高速道路を下り、空港の駐車場へと車を停める。櫻井は、「迎えに行ってくるよ。少し待っていて」と、優しく優弦に言うとターミナルビルへと消えていった。
遠方からの客人をもてなすために櫻井は優弦を三日間貸し切った。こんなことはさくらタクシーでも前代未聞で、所長以下、営業所の面々はびっくりしたり羨ましがったりと様々な反応をみせた。特に川本は櫻井を知っているからか、「ほんまに気に入られとるんじゃのう。ここまできたら愛されとるとしか思えんわ」と、本気とも冗談ともつかない軽口を叩いて、優弦は苦笑いで答えるしかできなかった。
いつ呼び出されるかわからないから、この三日間は営業車も借りっぱなしだ。一応、業務だから制服は着用しているが、櫻井は優弦をただのタクシードライバーとして客人に紹介する気はないようだ。
自分の拙い英語の案内で、相手に満足してもらえるのかは未だに不安がある。でも、櫻井は優弦の英語はパーフェクトだと手放しで褒めてくれた。
(イギリスからのお客様か……)
ちくん、と胸の奥の古傷が疼いた。東京から広島に戻ってくる原因の一つとなったのは、当時の恋人との別れだ。その人は会社の上司で英国人だった。そのことを優弦は櫻井に打ち明けてはいない。
優弦は今、過去の亡霊と向き合っている。
実は櫻井がまとうオーデコロンは、当時の恋人が愛用していたものと同じだ。それが引き金で櫻井を意識するようになり、そして今は肌を合わせる間柄になった。だが、櫻井の存在が近しいものになればなるほどに、忘れたはずの昔の恋人の影がゆらゆらと陽炎のように、優弦の脳裏に浮かぶようになっていた。
櫻井が万年筆でサインをする姿が、彼が滑らかにペン先を動かしていた仕草と似ていて驚いた。隣りに座ってレンタルした映画を視ていたら、感想を述べる櫻井の言い回しが彼と同じだと気がつく。そう思った途端に、櫻井の笑う顔が、声が、ふとした仕草が、そして優弦の素肌を這う愛撫が、突然いなくなった彼と重なるようになってきたのだ。
(彼と櫻井さんはまったく違う。それなのに、どうして彼の面影が見えてしまうんだろう)
まるで亡霊の彼が櫻井に取り憑いているように――。
(きっと、これはおれの罪悪感が見せているんだ)
櫻井に自分の過去を打ち明けられない罪悪感。東京での日々を櫻井に知られるのが恐ろしい。広島に戻ってきた経緯を知ったら、きっと櫻井は優弦を軽蔑する。そんなことになってしまったら、今度こそ自分は壊れてしまう。それだけ、優弦のなかで櫻井の存在は大きくなっていた。
当時の恋人との付き合いは甘く激しい熱情に翻弄された日々だった。彼は生まれながらの英国貴族で気位が高かった。優弦を可愛がってはくれたが、どこかその言動は支配的でもあった。そして優弦は彼の所有物だったからこそ、理由も言わずに彼は優弦を捨てたのだ。
だが今は違う。櫻井は優弦を慈しんでくれる。常に愛をささやいてくれる。主張の少ない優弦の言葉から、優弦の想いを丁寧に拾い上げ大切にしてくれる。いつか、櫻井はここを去ってしまうのだろうが、前のような不安は今はない。以前は火遊びの相手にされていると思っていたが、櫻井と付き合ううちにそんな考えは消えてしまった。
(だからこそ、早く彼を忘れないといけない。おれがいま愛しているのは櫻井さんなんだから)
青い空へと飛んでいく飛行機をフロントガラス越しに見上げて、優弦は自分に言い聞かせるように小さく深呼吸をした。
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