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第44話
『マサキ!』
到着ロビーに響き渡る声で名前を呼ばれて、櫻井は少し戸惑いがちに右手を上げた。休暇だからと言ったのに、ジェイクの姿はきっちりとした仕立てのいいスリーピースで、本来の目的はなんなんだと穿った考えが浮かんでしまった。
少し暗い金髪にグリーンの瞳を細めてジェイクは小さめのスーツケースを足元に置くと、櫻井に両手を廻してきた。櫻井もそれにならって、『よく来たな、ジェイク』と、そのしっかりとした背中にハグをする。
『元気そうでなによりだ。恋人の手厚い看病が良かったんだな』
『まったくいつの話を蒸し返している。それよりも車を待たせているんだ。積もる話はあとで良いだろう』
櫻井から体を離したジェイクが、『やっとマサキの恋人の顔を拝めるんだな』と、楽しそうに笑う。櫻井はジェイクのスーツケースに手にした。
『しかし休暇で来たにしては、その格好はなんだ? それに荷物も少なそうだし、ここで過ごしたあとはロンドンに直接戻る予定だったよな?』
『それがニホンでの仕事がまだ終わっていなくてね。荷物のほとんどはトウキョウに置いたままなんだ。まったく、シマノの旧役員たちはしぶとくて厄介だよ。まあ、君が来る前には、不要分子はある程度排除しておくつもりだから安心したまえ』
ターミナルビルから外へ出ながら、櫻井は呆れたように笑った。
『その話はまだ考えてもいないんだぞ? それに赤城 さんがいるのだから、彼に任せればいいじゃないか』
『私の中では決定事項だ。たしかにアカギは優秀だが冷徹さに欠ける。それに、いまだにサーバルに不穏な動きもあるんだ。早くマサキにシマノを任せたい。とにかくあそこはまだ風通しが悪すぎて窒息しそうだ』
日本の老舗精密機械メーカー、シマノ。ジェイクは三年前、現在のブリティッシュセブンシーズホールディングス(BSSH)の社長兼CEOに就任する前に、買収したシマノの社長として日本に滞在していた。初めての外国人役員を擁した日本企業のシマノの中にあって苦労はしただろうが、ジェイクは日本人スタッフとも良好な関係を築き、業績も伸ばしてとても精力的に職務を全うしていた。
だが、ある日突然、本国からの召還命令でジェイクが日本を離れると、シマノはアメリカの新興企業、サーバル社の配下となってしまった。以前から経営状態の悪化していたシマノの経営層では、身売り先をBSSHにするか、サーバルにするかで意見が割れ、熾烈な争いが繰り広げられていたようだ。
一旦はサーバル配下となったシマノは、その後もあまり経営状態が良くならず、結局また、BSSHに助けを求めた。それを承諾したのは父親の跡を継いでBSSHの社長になったばかりのジェイクだ。だが、助けるかわりにジェイクが行ったのは粛清とも言える大幅なリストラだった。ジェイクは役職問わず、不要と判断するとシマノの社員たちをあっさりと解雇した。その非情な辣腕振りは共通の知人を通して櫻井の耳にも噂となって入ったほどだ。なにがジェイクの逆鱗に触れたのか、いまだに櫻井には原因がわからないままだ。
横断歩道を渡り、タクシーの待機場所へと近づく。
『さあ、マサキ。君のプリンセスの馬車はどこだい?』
おどけて言うジェイクに櫻井は何台か停まっているタクシーに目を向ける。一番奥にさくらタクシーの行灯のついた車があり、その傍に誰か立っているのが見えた。
(車外で待っていてくれたのか。ああいう生真面目なところも好きだな)
身なりを調え、制帽を脱いで白い手袋の両手で持ち、背筋を伸ばして、やって来るお客様を迎える優弦の姿はいつ見ても清々しい。櫻井は隣を歩くジェイクに、
『ほら、ジェイク。彼があそこで立って我々を待ってくれている。優弦っ!』
『……ユヅル?』
横でジェイクが小さく呟いたが櫻井は気づかなかった。それよりも、櫻井の声に意外な反応をした優弦の姿が気になった。
声をかけた瞬間は櫻井の姿を認めてにこりと笑ったが、それは急に失われると精巧にできた人形のようにその顔から色がなくなった。
初めて見る優弦の強張った表情に櫻井の胸がざわついた。なぜか反射的に隣のジェイクに視線を向ける。彼も石化の魔法がかかったかのように動きを止め、大きく目を見開いて前を凝視している。
じわりと胸に妙な予感が広がる。しかし、ジェイクはすぐに優雅な微笑みを浮かべると、『彼が君のヤマトナデシコか』と、櫻井に向かって軽口を叩いた。
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