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第45話

***  櫻井の隣を歩く人物がはっきりと瞳に捉えられる。それが誰なのか脳が理解すると、優弦の胸は張り裂けんばかりに鼓動を強めていた。 (どうして? なぜ彼がここに……櫻井さんの隣にいるんだ……)  自分の顔が強張っているのがわかる。制帽を持つ手に力が籠り、手のひらに吹き出した汗が白い手袋を湿らせていた。それは背中も同様で、冷たい汗がつぅ、と背筋に沿って滑り落ちていく。  ふいに目の前が暗くなる。急激に体の熱が奪われていく。このままでは倒れてしまう……。  近づいてくる櫻井の姿を優弦はすがるように見た。足早に近寄る彼の表情は、優弦の異変に気がついて少し曇っている。駄目だ、こんなに動揺していては。櫻井が彼を連れているということは、彼が櫻井の英国人の親友なのだ。こんなところで櫻井に不審に思われてはならない。優弦は彼らに悟られないように、グッと両足に力を入れた。  なにごともなかったように――。  あたかも初めて会うように――。  櫻井の隣を歩く彼は薄く微笑んで優弦を見ている。その笑顔の意味が測れないまま、優弦は小さく震える体をなんとか抑え込んで、目前に立ち止まった二人に深々と頭を下げた。  櫻井が彼に話しかけている。優弦のことを彼に紹介しているのだが、その簡単な英会話でさえ、うまく耳に入らない。  落ち着け、落ち着け、落ち着け……。  小さく息を継ぎゆっくりと顔をあげる。今、自分は笑顔でお客様を迎えられているだろうか……。 「優弦、彼はジェイク・ハワード」  櫻井が優弦に彼を紹介してくれた。彼は緑色の瞳で優弦を見つめると一拍置いて、 「こんにちは、ユヅル。あなたに会えて光栄です」  流暢な日本語がジェイクの口から飛び出して隣の櫻井が驚いている。それよりも優弦は、他人行儀な彼の言葉に大きな安堵ともに同じくらいの寂しさを感じた。  すっとジェイクが優弦に右手を差し出す。その瞳に吸い寄せられてしばらく立ち尽くしていた優弦は、少し顔を傾けたジェイクに気づくと慌てて手袋を外して彼の右手を握った。  ドクンドクン、とこめかみが脈打つ。早く挨拶を返さないと。でも、握ったジェイクの大きな右手に力を込められると、途端に優弦の言語中枢は麻痺してしまった。思わず目を逸らすように俯いた優弦にジェイクは、 『彼はとてもシャイなんだね。でも、マサキが夢中になるのはわかるな』 『軽口を言うなよ、ジェイク』  笑い合う二人の男を前に優弦は気が気ではない。なんとか渇いた唇を湿らせて、緊張に絞まる喉から声を絞り出す。 『ようこそ広島へ、サー・ハワード。……それでは本日のご宿泊先までご案内いたします』 『素晴らしいね、見事な英語だ。でも、そんなに畏《かしこ》まらないで』  くっ、と握手をしていた手を引かれた。端からではそんなに力は入っていないように見えるだろう。なのに、体が前へとつんのめって途端にジェイクの顔が近くなった。咄嗟に足を踏ん張った優弦の二の腕をジェイクが掴む。そして彼は櫻井に気づかれないように顔を近づけると、優弦の耳元で囁いた。 『……以前と同じように、ジェイク、と呼んでくれたまえ』  ぎゅっと掴まれた腕の鈍い痛みに、慌てて体をジェイクから引き離す。それはほんの数秒の出来事だったが、優弦の顔を蒼白にするには充分だった。 『もっ、申し訳ございません、サー。あの、お荷物を……』 「荷物ならここに優秀なポーターがいるから大丈夫だ」  また、ジェイクからさらりと出てきた日本語に櫻井が呆気に取られている。ぶつぶつと文句を言いながらも、車のトランクにジェイクの荷物を入れる櫻井の様子を見て、優弦は彼になにも悟られなかったことにホッと胸を撫で下ろしていた。  後部座席に二人の男を乗せて、優弦が運転するタクシーは空港から広島市内に向けて高速道路を走っている。  ハンドルを握ると気分が少し落ち着いた。それでも背中で繰り広げられる談笑に、つい聞き耳を立ててしまう。それに後部座席の会話には、先ほどから不思議な現象が起こっていた。 『ジェイク、いつの間にそんなに日本語が上達したんだ? 以前の君は父上の命令でしぶしぶ日本に赴任したから、言葉をマスターする気はないと言っていたのに』 「郷に入っては郷に従え、を実践したまでさ。ある人が熱心に教えてくれたんでね。帰ってからも日本語を学んだんだ」

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