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第46話

 日本人である櫻井が英語、そして英国人のジェイクは日本語というちぐはぐな会話。しかし二人とも、それをまったく違和感とは思っていないようで自然に話がはずんでいる。  それにしてもジェイクの日本語はまったく澱みがない。一体どれだけ練習したのだろう。あの頃は日本人の秘書に日本語で話しかけられると無視を決め込んでいたのに。  後部座席に急に静寂が訪れた。そして、ジェイクがゆっくりと母国語で言葉を紡ぐ。 『君はタクシードライバーになって、どのくらい経つ?』  制帽の下からルームミラーを確認する。写っていたのは射られるような真っすぐな視線。綺麗な緑色の瞳は優弦の答えを待っている。 『……もう一年になります』 『そうか。以前はどこでなにを?』 『前は東京で会社員をしていました』 『どうしてヒロシマに?』 『ここは私が幼い頃に育ったところですので……』  白々しい詰問は止めて欲しい。今度はジェイクの隣に座る櫻井の様子を窺う。彼は優弦とジェイクの会話が聞こえているだろうに、窓の外に写った景色を眺めているようだ。  助けを求めるように櫻井の顔を鏡越しに見た。それを期にジェイクも黙ってしまい、今度はやけに静かな空間に身の置き所がなくなってしまう。  やっと高速道路を下りて広島市内に入った。今回、ジェイクが滞在するのは市内中心部の高級ホテルだ。ホテルの入り口に車を着けると、恭しくドアマンが彼らを出迎えてくれる。ジェイクがドアマンと話をしていると、櫻井が助手席の開いたウィンドウから優弦に、 「今日はここまででいいよ。またあとで明日のスケジュールを連絡をするから。おつかれさま、優弦」  にこやかに笑ってくれた櫻井に優弦は曖昧な笑みを返した。車を発進させると、バックミラーに優弦の車を見送ってくれる櫻井の姿が映し出されている。その姿も信号を右折すると見えなくなり、ふう、と大きな息をついた優弦は、今になってハンドルを握る手がずっと震えていたことに気がついた。 ***  まだ眠るには早すぎるが、優弦はシングルベッドの上に寝そべったまま、右手に握ったスマートフォンの液晶画面を見つめていた。午後十時過ぎ。いまだに櫻井からの連絡はない。  独りで暮らす小さな部屋。調度品は必要最低限のワンルーム。さくらタクシーに就職が決まってから住み始めたこの部屋には、当然、誰も招き入れたことはない。  ころん、と何度目かの寝返りを打ち、はぁ、とため息をついた。たぶんあのあと、彼らは夜の広島の街に繰り出したのだろう。積もる話をしながら今頃は、上品なバーで旨い酒を交わしているに違いない。  優弦は軽く目を閉じた。すると途端に目蓋の裏側に、空港の駐車場で再会した彼の姿が映し出された。  ――素晴らしいね、見事な英語だ。  久しぶりに耳にした、彼の言葉が思い出される。 (教えてくれたのは、あなただ……)  あの頃と寸分も変わらない彼の姿。幾度、その姿を思い出しては眠れぬ夜を過ごしたことか……。 (ようやく忘れることができたのに……)  ジェイク・ハワード。以前の会社の上司であり、恋人だったひと――。  明日は櫻井とともに、ジェイクに広島の街を案内することになっている。世界遺産である平和記念公園と安芸の宮島だ。それを思うと気が滅入る。今日、再会したジェイクは特別驚く様子もなく、優弦に対してまるで初対面のような態度を取った。反対に自分はかなり動揺したが、櫻井には不審に思われなかったようだった。ジェイクの滞在は明後日までだから、明日一日を冷静に過ごせれば櫻井に二人の過去の関係を感づかれることはないだろう。  ジェイクはこのまま、優弦を初めて会ったただのタクシードライバーとして扱ってくれるだろうか。 (……いや、おれのほうが心配か。あの人は昔からなんでもそつなくこなして、他人に自分の心を隠すのが上手い人だった)  優弦は鳴らないスマートフォンの画面をぼんやりと眺めた。

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