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第50話

 夕方で渋滞する街中を抜け、路面電車と並走して港を目指す。現在の時刻は午後六時前。もうホテルは見えているから、これから男を降ろして急いで自宅に戻って着替えれば櫻井との約束の時間には間に合う。ホテルの敷地内に入り、正面入口へ車を着けようとしたとき、 「君、このまま地下駐車場に入ってくれ」  優弦は正面入口を素通りして脇にある地下駐車場への坂道を下った。駐車場は平日だからかあまり車は停まっていない。地下入り口の近くに車を停めて後部座席のドアを開けると、男はなぜかそのまま座ったままだ。 (なんだ? もしかして乗り逃げするとか……)  少し警戒をすると男は、「月見里優弦(やまなしゆづる)君」と、澱みなく優弦の名をフルネームで言った。 「私を覚えていないか? あの頃は眼鏡をしていなかったし、君には忘れたい顔かもしれないが」  ルームミラーに写った男の姿を確認した。たしかにその顔には見覚えがある。優弦は思わず後ろへ振り向くと、その男の顔を明確に思い出して驚いた。 「――赤城(あかぎ)部長……」 「今は、シマノの常務取締役だ。久しぶりだな。元気そうでなによりだ」 「どうして、広島に……」 「昨日、ハワード社長に呼び出されてね。午前中に広島に来たんだ」  ジェイクはもう東京に戻ったはずだ。それを赤城に言うと、 「彼はまだ広島に、このホテルにいる。君と話をしたいと言われていてね。私に君をここに連れてくるように命じられた」 「……おれは話すことはありません。やっとあの頃を過去として処理できるようになったんです。もう、ジェイクとは……」 「櫻井雅樹(さくらいまさき)とはどういう関係だね? 彼が、シマノの社長候補だということを知っているのか?」  赤城の台詞に優弦の喉が詰まった。 (櫻井さんが次のシマノの社長? でも、シマノはあのあとサーバルに乗っ取られて……) 「シマノはまたBSSHの傘下に入った。あの頃の取締役たちはすべてハワード社長が解任したよ。君を人間扱いしなかった奴らももういない。ハワード社長は覚悟を持ってシマノを改革されている。そして、櫻井氏の就任もハワード社長の一存で決まる。それがどういうことか、君にはわかるな?」  赤城の有無を言わせない気迫に、優弦の思考は止まってしまった。 「社長はもう少し時間がかかるそうだ。そんなところに立っていないで、こちらに座りなさい」  瀬戸内の夕景を一望できる壁一面の大きな窓の傍にあるソファを示して、赤城は優弦に声をかけた。優弦は広くて豪華な室内に気後れして、部屋の入り口からなかなか一歩を踏み出せない。ここはリゾートホテルの一室。多分、スイートルームなのだろう。通された部屋にはベッドはなく、まるで応接間のように美しい調度品が並べられている。奨められたソファも革張りの一品で、自分が座ってしまってもいいものかどうか迷ってしまった。  それでも恐る恐るソファに腰かけると、赤城がいつの間に用意したのか、湯気の立つティーカップを優弦の目の前に置いてくれた。 「ルームサービスを頼んでおいた。君も好きな紅茶だと聞いている」  ふわりと香るのはアールグレイ。優弦もよく、この紅茶を淹れるようにジェイクにせがまれた。その懐かしい香りは優弦の緊張を解きほぐし、急に喉の渇きを覚えた。 「タクシー運転手をしているのだね」  優弦に問いかけながら赤城が自分の前に置いたカップを手に取り、それを口に運んだ。優弦も同じように皿ごとカップを手にする。 「生活はできるのかね? タクシー運転手なんて、時間も不規則で危ない客もいるのだろう? 君には似つかわしくない仕事に見えるが」 「それは職業に対する貴賎です」  赤城の問いに短く答えて、優弦は紅茶を口にした。アールグレイを最後に飲んだのはいつだっただろう。たしか、ジェイクが本国へ帰る日の朝、ベッドの中で飲んで以来だ。でも、こんなに雑味のある味だっただろうか。ジェイクが淹れた紅茶はもっとすっきりとした味わいだったし、自分が淹れたものは優しい風味だとジェイクはよく褒めてくれた。 (なんだか……、不味い……)  急に肩が重くなった。なんとかカップをテーブルの上に置くと、窓の外に広がる夕景に視線を写す。その光景はやけにゆらゆらと揺れて輪郭がはっきりとしない。頭がぼうっとして姿勢が保てなくなる。駄目だと思う前に優弦の上半身はずるずるとソファに崩れ落ちてしまった。  目蓋が重くて開けていられない。目を閉じると微かに人の話し声が聞こえた。  あれは……、ジェイクの声? 『こんなことをなさらなくても、彼はきっと話を聞いてくれるはずです、社長』 『……一度は逃げられているんだ。万全を期すのに手段は選べない。それよりも君はロビーで待っていてくれたまえ。マサキが来たら足止めしろ』  ゆっくりと体を持ち上げられる感覚がする。安定した浮遊感の中に、嗅ぎ慣れた甘い香りが漂った。 『ユヅル、やっと見つけた……』  温かなものが唇に触れたところで、優弦の意識は完全に途切れた。

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