51 / 78
第51話
***
平日夜のデパート前は、家路を急ぐ人々の信号待ちでごった返している。信号が青に替わり、人々が動き出すと残されたのは待ち人来たらずの人たちだ。その人たちの中に櫻井も混じって、手の中のスマートフォンをじっと眺めていた。
すでに約束の午後八時を過ぎている。なのに優弦は姿を現すどころか連絡もつかなくなっていた。
櫻井は何度目かも分からなくなった発信をもう一度試みた。たしかに優弦のスマートフォンを呼び出すコール音が流れてくる。なのにそれは止まることもなく、櫻井はまたため息混じりに停止ボタンを押した。
(どうして連絡が取れないんだ)
夕方の話では仕事を切り上げて一旦自宅に戻ると言っていた。残念ながら優弦の自宅は知らない。現在、自分が住むマンスリーマンションにわりと近い筈なのだが、プライベートで逢うときはいつも優弦を自分の部屋へ誘っていた。
(なにか、不測の事態が起こったのだろうか……)
例えば、帰りに事故に遭ったとか、以前のように不埒な客に絡まれたとか、それとも自宅で具合が悪くなって倒れているとか――。
それらを考え始めると次々に嫌な想像が脳裡に膨らんできた。そうでなくても優弦の仕事は危険が伴うのだ。あまりにタクシーが身近にありすぎてわからなかったが、言わばあれは高速で走る密室だ。その密室にただひとり、なにかしらのトラブルに巻き込まれても、優弦は自力でなんとかするしかない。前のように酔っ払いに絡まれていた優弦を助けられたのは、本当にタイミングが良かっただけだ。
櫻井はまた電話をかけてみた。相変わらず流れるのは虚しい呼出し音だけだ。ここで優弦が来るのを待ち始めてから、もう一時間になろうとしていた。
(これは一度、彼の家を訪ねたほうが良いかもしれない)
さくらタクシーに連絡をすれば教えてもらえるだろうか。いや、それよりも営業所へ直接乗り込んで事情を説明したほうが……。
思いあぐねていると、「あのぉ」と二人組の女性に声をかけられた。さっきから見ていると櫻井が一人きりだから、一緒に飲みに行こうと言う。逆ナンされて櫻井は憮然としたが、それは表情には出さずに彼女たちをあしらうと、閉店準備を始めたデパート前から歩き始めた。
少し歩いて目についたバス停へと向かう。目的はバスではなく、流しているタクシーを捕まえることだ。調度良い塩梅に、バス停の先には行灯を灯した客待ちのタクシーが一台停まっている。櫻井が大股でそのタクシーに近づくと、中の運転手が気がついたのか、後部座席のドアが開いた。
座席に座り、行き先を言おうとしたとき、「あれぇ?」と運転手が素っ頓狂に声をあげた。
「櫻井さんじゃないですか。どうしたん? 今夜は優弦と飲んどるんじゃなかったですか」
振り向く運転手の顔を見て、あっ、と驚いた。こんな偶然もあるものだ。運転手は優弦の同僚の川本だった。
「川本さん。実は優弦、いえ、月見里 さんと連絡が取れないんです」
ばたん、とドアが閉まるのと同じタイミングで川本に切り出す。
「夕方の電話では話ができたのに、今は何度かけても出ないんです。待ち合わせに遅れるなら彼は必ず連絡をくれる筈なのに。仕事を終えて一度、家に帰ると聞いているので、なにかあったのではないかと思っているんです。これから彼の家に行ってもらえませんか?」
畳み掛けるような櫻井の台詞を川本は目を大きくして聞いていたが、
「夕方、おれが会ったときも同じ話をしとったわ」
「会ったんですか、彼に」
「ああ、いつも休憩に使う川沿いの公園脇で。もう仕事を上がると言うとったのにたしか、客がひとり、あいつの車に近づいてから乗せていったのう」
川本は、ちょっと待っとり、と言うと無線で配車センターと連絡をし始めた。
「センター、川本。なに? あんた、ちゃんと仕事しよるん?」
応答したのはたまに櫻井の配車依頼を承けてくれる女性の声だ。川本は櫻井に笑いながら、「おれの嫁」と言った。
「なあ、二一五からなんぞ連絡あったか?」
優弦の乗るタクシーの車番を告げて川本が自分の妻に問いかける。
「二一五? ああ、ユヅくんか。ううん、なんもないけど?」
「事故とかには合っとらんみたいじゃね」
川本の言葉に、少しだけ安堵した。でも、それならばますます優弦の居場所が気になる。櫻井の表情を読み取ったのか、川本は無線のマイクに向けて、
「ちょっと優弦に緊急の用事があるんよ。あいつがどこにおるか教えてくれるか?」
えっ、と櫻井が呟くと川本はニヤリと笑った。しばらくすると無線から、
「二一五は今、宇品 の先におるね」
「宇品ぁっ? 広島港か?」
「んーと、ここは……。ホテルじゃね。プレミアリゾート広島」
「いつからそこにおる?」
「はあ? ちょい待ちんさいよ、ええと……、二時間前から動いとらんね。もしかしたら、チャーターしてくれたお客さんと一緒におるんじゃないん?」
わかった、と礼を言って川本は無線を切ると、
「車載GPSで居場所が分かるんじゃ。ほじゃけど、なんで宇品のホテルなんかに」
それも二時間も前から動きがないのだ。櫻井は急に嫌な予感がした。この予感は初めて感じるものではない。そう、これはつい最近も感じたものだ。
「川本さん、急いでそのホテルに向かってください!」
焦る櫻井に、よしきた、と川本は応じて、タイヤの音を響かせながら車を急発進させた。
ともだちにシェアしよう!