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第52話

***  なにかに頬を柔らかく包まれた。それは少しだけ硬い感触なのに、じんわりと温もりが伝わってくる。そのなにかは幾度か優しく頬をなぞると、ふっといなくなった。  しばらく経つと今度は額に触れるものがある。前髪のひと房を軽く引っ張られ、ん、と目蓋に力が入った。すると、額にかかる前髪を掻き分けられて、先ほど頬を包んだものよりも柔らかくて湿ったものが額に押し当てられた。  深い水底に沈んでいた意識は、少しずつ明るい水面へと向かって浮上していた。同時に、自分の頬や目蓋や額に触れるものの感触がはっきりとしてくる。  影が自分の顔に近づいてくる。それは覆い被さるように右の耳元へと落ちると、ふぅ、と暖かな吐息を吐き出して、ひと言、こう囁いた。 「ユヅル」 (櫻井、さん……?)  バリトンの響きが耳たぶを掠めて優弦は目蓋を開けた。まだぼんやりと痺れの残る脳が、やがて自分の瞳に映った人物の顔を認識したとき、いきなり優弦の体は強く締めつけられた。 『ユヅル、目を醒ましたか』  柔らかな床に押しつけられ、優弦は身動き一つ許されない。ただ、自分をこうして戒めている相手が櫻井ではないことは痺れの残る頭でもわかった。  ――どうしてここに彼がいるのだろう。なぜ、こうして自分はふたたび彼の腕の中に囚われているのだろう。 『あれからおまえを捜した。それこそトウキョウ中を捜し回った。なのにどこにもおまえはいなくて……。まさかヒロシマにいるとは思わなかった』  擦り寄せられる頬の感触。ふわりと鼻先を掠めるコロンの香り。少し焦ったように囁かれる低い声は、すべて記憶の奥底に頑丈に封印したものだ。なのにそれらはほんの小さな隙間から、煙のように漏れだして優弦の体を雁字搦めにする。  はあ、と彼が熱い興奮を吐き出した。シャツの襟元を掠めて首筋に吹きかけられた吐息が、止まっていた思考をはっきりと覚醒させた。 「は……、離して、くださいっ」  優弦は縛めから逃れようと身を捩った。そんな優弦を逃すまいと廻された腕に力が篭る。締めつけられる苦しみの中でも、優弦は精一杯の抵抗の言葉を叫んだ。 「ジェイクっ、離してっ」  ギシッ、と床が軋んでジェイクが上体をあげる。しばらく寝ころがる優弦を冷たく見おろしたあと、ジェイクは黙って優弦から離れていった。  視界から消えたジェイクを追って、優弦は体を起こそうとした。ところが床に突こうとした手は言うことを訊いてくれない。右腕を動かすと手首に痛みを伴って左腕も引っ張られる状況に、優弦は両方の腕を同時に上げてみた。 (えっ、これは……)  自分の左右の手首が重なったまま、長い布できつく縛られている。そのストライプ模様の布は見慣れている制服のネクタイだ。そして縛られた腕を覆っているのは紺色の上着ではなく、白いワイシャツの袖だった。優弦は頭をなんとか持ち上げると、目に入った光景にぎょっとした。  カーテンが開け放たれたままの壁一面の窓ガラス。それは室内の仄かな照明に照らされて鏡の役目をしている。そこに映っている調度品は、赤城に連れてこられた部屋の様相とは違った。  床だと思い込んでいたものは大きなベッドだった。そのベッドの上には横たわって驚きの表情を見せている自分自身。その格好は制服の上着が取り払われて、白いワイシャツだけの上半身、そして両足を覆っていたはずのスラックスはベルトを外され膝の方までずり下ろされていた。体毛の薄い剥出しの太腿に、天井から下がっている小さなシャンデリアの光があたって自分の足なのに妙に艶かしく見えてしまう。  まさか、下着もないのかと下半身に意識を集中すると、肌触りの良い布の感触が薄く下腹にぴたりと感じられて少しだけ、ほっとした。  やけに胸の辺りが肌寒い。優弦は両手を縛られたまま、なんとか体を起こそうとベッドの上でもがき始めた。  同じ空間にジェイクの気配は感じられない。仰向けから俯せになり、両手を突っ張って上体を起こすと、上半身の肌寒さの原因が分かる。シャツの前身頃を止めていたボタンがすべて外されて、自分の白い素肌があらわになっていた。  不安定に沈むマットの上に膝をついて、なんとか両手の縛めを外そうと悪戦苦闘していると、 「やめなさい。そんなに暴れると手首を痛める」

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