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第61話

***  それはいきなりの辞令だった。  来週から就任する外国人新社長の通訳をしろと言われたのだ。期間は正規の通訳が来るまで。社内には優弦よりもTOEICの成績が良い者は大勢いる。なのに自分に辞令が出たのは、システム部内で自分を巡る社員たちの不協和音を手っ取り早く解消するための一時的措置のように思えた。  就任してきたジェイク・ハワードはBSSHの筆頭株主の息子で自身も由緒ある英国貴族のひとりだった。ブラウンに近いブロンドと翡翠色の瞳を持つ背の高い美丈夫で、彼には常にBSSHから連れてきた優秀な部下が寄り添い、シマノからは優弦と秘書課の女性社員が就くことになった。  優弦が今回の仕事を命じられたとき、シマノの役員から不思議な命令をされていた。その内容は、ハワード社長の機嫌を損ねるな、そして彼の要求には決してノーを言ってはならない、というものだった。  その意味は彼に就いてすぐにわかった。とにかく彼は日本人を信用していない。どこかこちらを下に見ているのか日本語を一切受け付けず、優弦は常に彼とシマノの社員との間を取り持った。  秘書課の女性社員は一週間もしないうちにジェイクの不興を買って姿を消した。理由は、彼女が淹れた紅茶が不味い、という些細なものだった。  通訳が主な業務だったのに、いなくなった彼女の仕事も引き継ぐことになった。システム開発から畑違いの秘書のような仕事は慣れないことばかりで胃の痛い思いをした。それに当のジェイクはいつも冷たい視線で優弦を注視するのだ。それこそ頭から足の先まで気を抜くこともできず、こちらの英語が聞き取れないときは無視されることも多々あった。  それでも日が経つにつれ、ジェイクの早口が聞き取れるようになると、彼と少しずつ意志疎通ができるようになった。すると互いに笑顔が増えて、ジェイクは優弦にアクセントの間違いを指摘するようになった。二人でランチに行くようになり、たまの休みには浅草や秋葉原を案内した。そうするうちに優弦は、ジェイクの紳士的な振る舞いや時折見せる優しさに惹かれていった。  結局、シマノが用意した新たな通訳と交代する話もなくなり、優弦は正式にジェイクの傍で働くことになった。  その頃にはプライベートでも心を通わせ、ジェイクから好きだと告白されて、二人は互いに愛し合うようになった。やがてジェイクは自分の住むタワーマンションの一室を優弦に与え、片時も離さなくなった。取引先や財界とのパーティーにも優弦を同席させるジェイクの公私混同振りに、BSSHの部下からも苦言があったが彼はそれを気にも留めなかった。  あれほど嫌っていた日本語も優弦に教えを請うようになり、優弦は初めて心からの満ち足りた日々を送っていた。だが、その日々は二人が出逢って一年後、突如終わることになる。 『急用だと言われたが、いつもの業務報告だ。一週間で戻ってくるよ。帰ってきたら休暇を取って南の島に旅行に行こう。なるべく早く帰るから、それまで良い子で待っていてくれ』  ベッドでシーツだけを身にまとい、二人で優弦の淹れた朝の紅茶を楽しんでいたときにジェイクが言った台詞。今でも寸分違わずに覚えている。  しかし、約束の一週間が経ってもジェイクは戻って来なかった。BSSHから派遣されていたジェイクの部下たちにも帰国命令が下り、二週間もしないうちに優弦は主のいないシマノの社長室に独り残されてしまった。  なにが起こっているのかもわからず、そしてそれを聞く人もいない。たまらず、廊下で姿を見つけた日本人役員に話を聞いたがなにも知らないと冷たくあしらわれた。そして、明らかにBSSHの関係者とは違う外国人を社内で見かけるようになった。  なにかがおかしい。  優弦はジェイクの元へ向かう決心をした。きっとなにか不測の事態が起こったのだ。自分で優弦に連絡することもできない事態が。そう考え始めるといてもたってもいられなくなり、優弦がイギリス行きの飛行機のチケットを取ろうとしていたときだった。  優弦をジェイクの通訳に命じた常務から、しばらく元のシステム部に帰るようにと言われた。常務はジェイクが、本国での重要案件の解決に尽力するためにしばらくイギリスに留まると言い、必ず彼は戻ってくるからイギリスへは行くなと強く念を押された。  シマノの経営はいつの間にかジェイクが赴任して来る前の役員たちが受け持つことになり、たったの一ヶ月あまりで優弦の環境は大きく変わってしまった。

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