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第65話

*** 「優弦……」  これは櫻井の声なのか、ジェイクの声なのか、優弦には聞き取れなかった。  あのとき、ジェイクと自分の恋は終わった。赤城の計らいで優弦は人知れずシマノを退職した。退職後は家に隠りきりになり、ベッドに横になったまま身動きもできず、起きていればジェイクとの日々を想い哀しみの涙を流し、眠るとあのレイプの夜を悪夢に見て苦しみに涙した。  幸いなことに広島の佐川が、「物産展の商談で東京に来ている、会わないか」と、連絡をくれたことで優弦の酷い有り様が発覚し、そのまま強制的に広島へ連れて帰られた。それから佐川に世話になり、心を癒して、そして今の生活に落ち着いた。 「アカギが、自らも排除されるかもしれない危険を冒して私に告発してくれた。このままではシマノが滅茶苦茶にされると彼も憂いていたんだ」 「それで君はサーバルからシマノを取り戻して、優弦を蔑んだ奴らを粛清していったのか。今、サーバルは急激に資金繰りが悪化しているとも聞く。それを仕掛けたのも君だな?」  ふふ、とジェイクは笑ったが、その瞳には冷たい光が宿っている。そして彼はその瞳を櫻井の横に座る優弦に向けて、 「私たちを引き裂いた者はすべて排除した。おまえがあの告発に加担などしていないと言ってくれたことで、あれが仕組まれたことだともはっきりとした。だからもう大丈夫だ。ユヅル、今度こそ、私と一緒に来て欲しい。私はまだおまえを愛している」  優弦は驚いてジェイクを見た。まだおまえを愛している。ジェイクはたしかにそう言った。優弦を見つめるジェイクの緑色の虹彩は、優しい気配をまとっている。 (ああ、あの頃のジェイクだ。でも、なぜだろう……。どうしてこんなにも彼を恐ろしく感じてしまうんだ……)  優弦の逡巡がわかったのだろう。櫻井が優弦を庇うように背中へ隠すと、 「身勝手な言い草だな、ジェイク。今さら優弦を取り戻そうというのか?」  厳しい視線を向ける櫻井にジェイクは肩を竦めて笑いかける。 「君には本当にすまないことだと思っている。しかし、私はユヅルを返してくれとは言わない。なぜなら、彼は初めから私のものなのだから。君と出会ってからと私たちが過ごした時間とは比べるまでもないだろう」 「だから? 過ごした時間の長さだけが君が誇れる愛情だと?」  明らかにジェイクが気分を害している。櫻井をきつく睨めつけて、優弦に向かって右手を差し出した。 「さあ、こちらに来なさい、ユヅル。マサキの言うことなど聞かなくていい」  ジェイクの腕がいきなり伸びて、櫻井の脇を掠めると後ろの優弦の手を掴んだ。思わず小さく叫ぶと、櫻井が伸びたジェイクの右手首をガシリと掴む。ぎりぎりと力を入れながら櫻井は目の前のジェイクの顔から視線を外さない。ジェイクはこめかみから汗を一筋滴らせて、 「私の邪魔をするな! マサキ!」 「どっちが。これが英国紳士のやることか」  さらに櫻井が渾身の力を込めると、ジェイクは眉根に皺を寄せて優弦の手を解放した。優弦はできるだけ後退りをして二人から距離をとった。 「マサキ、今ならこの非礼は不問にしてやる。だから手を離せ。これ以上、私たちの邪魔をするならば君のシマノへの社長就任の話はなかったことになるぞ」 「おれも他の奴らと同じように脅すつもりか。おれは別にシマノの社長になんて最初からなる気はない。残念だが、おまえに優弦は任せられない。なぜなら、おまえは優弦を愛していないからだ」 「なんだと!?」  ジェイクの怒鳴り声に優弦は身震いした。しかし櫻井は微動だにせずに、 「おまえがしていることは自己満足だ。シマノの旧社長派に復讐したのも優弦のためじゃない。自分のプライドを傷つけられたからだ」 「はっ、今さらなにを言い出すのかと思えば。ユヅルが離れていくのがそんなに悔しいのか。見苦しいな、マサキ」 「見苦しいのはおまえだ、ジェイク。愛しているというのなら、なぜもっと早く優弦を迎えに来なかった。本国からの召還命令のあと、どうして日本に戻ってこなかったんだ」 「言っただろう? あの頃の私は父の命令もなく自由には動けなかった。親族を含め周囲は私を監視し、通信手段さえ奪われ、無理な婚姻まで結ばれて……」

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