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第66話

 今度は櫻井が、はっ、と一つ嗤いを溢すと、 「だからおまえはお坊っちゃんなんだよ。優弦を愛していたのなら、あのとき、すべてを捨ててでも日本に戻るべきだったんだ」 「そんなに簡単なことじゃない。一族に見捨てられたら、それこそ私は身動きが取れなくなる。だから私は必死に努力をして、父にも親族にも文句を言わせない力を得た。そしてユヅルを迎えるべく準備をしてきたんだ」 「自分を嵌めた奴らに復讐を遂げ、奥方と離婚をしたことがか?」 「離婚……? ジェイク、それは……」  思わず口をついた優弦の台詞にジェイクは薄く笑うと、 「ああ、おまえには関係のないことだ。新たな跡継ぎも作って父には満足して貰ったし、業務提携も上手く行ったからね。彼女とは話し合いの上で互いに自由になった。それだけのことだよ」  ジェイクには子供がいる。それなのにどうしてすべてが他人事のような感覚なのだろう。今の彼からは昔のような温かみを感じられない。それが愛していると言われても、素直に受け取れない部分なのだと優弦はわかった。優弦の表情から戸惑いを読み取ったのかジェイクは饒舌に、 「なにも心配しなくていい。子供は他の親族がハワード家の名に恥じぬよう上手く育ててくれるさ。私とおまえの関係を誰にも邪魔はさせない。さあ、ユヅル。私と来るんだ」  大きく腕を引き、櫻井の縛めから逃れたジェイクが優弦に詰め寄った。虚をつかれた櫻井が後ろからジェイクの肩を掴もうとして目に映ったのは、小さく怯えながらも真っすぐにジェイクに視線を向けた、初めて見る優弦の顔だった。 「ジェイク、おれはあなたとは行かない」  凛としたその響きがジェイクの動きを止めた。ジェイクから醸し出される雰囲気に今までの権威的な空気とは別に動揺が流れてくる。 「なにを言うんだ、優弦」  優弦の答えが信じられないのか、ジェイクの囁きが掠れている。 「……あの頃、おれはたしかにあなたのことが好きだった。あのまま、何事もなければ今でもあなたと一緒にいたと思う。でも、あの頃からおれたちの立場は対等じゃなかった。おれはあなたを愛していながらも、どこかであなたを恐れていたんだ……」  サーバルの男たちへの奉仕を強要されたとき、これがジェイクの命令だと嘘をつかれても優弦にはそれを否定するだけの自信がなかった。  いつかは飽きて捨てられる。ジェイクが紡ぐ愛の囁きをどこかで自分は疑っていた。 「だから、これはあなたを信じきれなかった報いなんだ」 「……それでもいい! 私たちは奪われた時間を取り戻せたらきっと……」 「ジェイク、君だって優弦を信じきれなかったんじゃないのか?」  櫻井の問いかけにジェイクは憔悴したように振り返る。 「君はあの優弦の告発文とサインを偽物だと思えなかったんだろう? 本当は父上の目を盗んで日本に戻ることも容易だったのに、それを敢えてしなかったのは、心のどこかで優弦の愛情を疑っていたからじゃないのか?」  私は、と呟くジェイクに、 「今でも優弦への想いが揺らぎないのならば、昨日、再会した時点でおれに関係を明かすべきだった。こんな形で優弦を連れてきて、彼の自由を奪い、自分の疑念が晴れてから、愛しているとほざいても彼の心には届かない」  ジェイクの肩が大きく揺れた。 「ジェイク、君は遅すぎたんだ」  櫻井が優弦を促してベッドから離れる。優弦はうなだれるジェイクに声をかけようとしたが、櫻井に止められてしまった。櫻井に肩を抱かれ、部屋を出ようとした優弦の耳に微かに、 「そうか、私は……。信じなければならなかったものを自分から手離したんだな……」  ジェイクのその消え入りそうな声を優弦は初めて聞いた。思わず扉の前で立ち止まった優弦に彼はベッドから降りて、放り投げていたスマートフォンを手にすると、 「……私だ。ああ、終わったよ。なるべく早い航空券を手配してくれ。……いや、ロンドンに戻るのは私ひとりだ」  短く命じるとジェイクはスマートフォンを力なく手放した。そして乱れた前髪を疲れたように掻きあげると、悲しげな笑みを浮かべて、 「……さようならだ、ユヅル。おまえの幸せを祈っている」  その緑色の瞳にはあの頃の優しい光が微かに浮かんでいた。

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