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第68話
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キュ、と蛇口を閉めて水を止める。目を閉じたまま、掛かっているタオルを手探りで手繰り寄せると濡れた顔を拭った。柔らかなリネンから鏡を覗くと、まだ少し腫れの引かない目蓋が気になった。
(こんなに泣いたのは、久しぶりだ……)
そう思っているとまたじわりと瞳が緩んでくる。優弦は慌ててタオルを両目に押し当てた。自分から別れを切り出したのに情けない。閉じた目蓋の裏側に櫻井の笑顔が浮かんで、余計にタオルが湿ってきた。
あのホテルで櫻井に別れを告げてから、十日が過ぎようとしていた。
あれから優弦は会社を休んでいる。表向きは川本が機転を効かせてくれて、季節外れのインフルエンザに羅患し、体調がなかなか戻らないということになっている。でも、それももう限界だろう。それに否が応でも生活はしていかないといけないから、そろそろ仕事に復帰しようと出社の準備をしていたところだ。
この十日間はほとんどの時間をベッドに横になって過ごした。最初は今が朝なのか夜なのかもわからず、ただ、漫然と夢とうつつを行き来していたような気がする。
そんな苦しい微睡みの中でも、思い浮かぶのは櫻井の姿だった。優弦に向けられる熱い眼差し、大きな手のひらは頬を撫で、長い指は後ろ髪を優しく鋤いてくれる。息をするたびに爽やかにコロンが香って、温かく優弦を抱きしめる。
しかし、気がつけば優弦は日の陰った部屋でただ独り。毛布を抱きしめ、枕を濡らして目を覚ましては、深い哀しみに漂っていた。
なにもしていないと櫻井を想うばかりで辛いのに、なにもする気が起きない。自分が決めた別れに後悔ばかりが先に立って、気がつけばスマートフォンの画面を眺めている。
あれから、優弦のスマートフォンには引っ切りなしに櫻井から連絡が入っていた。着信履歴は覚えてしまった電話番号で埋め尽くされている。留守番電話のメッセージだって櫻井の声しか入っていない。メッセージの内容はどれも、「会いたい」「話がしたい」というものだ。その声色は日を追うごとに苛つきと焦りがにじみ出ている。でもそれも、あるメッセージから様子が変わった。
「今日、ジェイクが日本を去った。君にすまなかったと言っていた」
そのメッセージを最後に櫻井からの着信は徐々に少なくなり、一昨日の夜を最後にスマートフォンは鳴らなくなった。
この選択が正しかったのかどうかは今でもわからない。広島空港のタクシー待機場所で、ジェイクと櫻井が二人並んで歩いてくる姿を目にしたときの、驚きの奥底に芽生えたもの。
過去の恋人と現在の愛しいひと――。
二人は自分に笑いかけ、愛を捧げてくれた。どれだけ自分が優弦を愛し、想っているのかを争った。そのことに戸惑いを感じる前に素直に嬉しいと震えた自分がいた。痺れるような優越感に浸った自分がいた。そして、それに溺れてしまいそうな自分が怖かった……。だから二人からの別れを選択したのに。
(それなのに、どうしておれは櫻井さんが忘れられないんだ……)
鏡に写る自分がまた泣いている。優弦はひとつ息を吐き出すと、また蛇口を捻って冷たい水に顔を浸した。
久しぶりにさくらタクシーの営業所に顔を出すと、普段、あまり話をしない年輩乗務員たちが優弦を心配して声をかけてくれた。大丈夫です、と作り笑顔で応えると、アルコール検査を終えて営業車の鍵を受け取る。事務所から車へと移動していると川本が声をかけてきた。
「連絡通りに今日から出社したんか。でもなんか、ちぃとやつれたのう」
優弦の顔を覗き込んで心配そうに訊ねる。川本とその妻は、優弦が休んでいる間に幾度かアパートに訪ねてきてくれて、食料品を差し入れてくれた。
「もう大丈夫です。本当に川本さんには迷惑をかけてしまって」
「いや、別にええんよ。ほら、おまえはなんちゅうか、弟みとぅなもんじゃし。ほじゃけど……」
出庫準備で車を点検する優弦の傍から、つかず離れずで川本が珍しくウロウロしている。優弦がそんな川本の様子を不審に思って小首をかしげると、あーっ、もう! と突然大きく叫んで、
「優弦! おまえ、あれから櫻井さんと話をしたんか!?」
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