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第69話

 いきなり両肩をがしりと掴まれて詰め寄られた。優弦は、いつになく真剣な顔の川本に薄く微笑むと、 「……してません。もう、関係のない人ですから」  むううっ、と川本が唸る。眉間に皺を寄せ、険しい目つきで優弦を見ている。その様相に圧されて優弦が、「あの、川本さん?」と名前を呼ぶと、クワッと目を見開いて、 「ええか、優弦。よう聞け。今日の十九時に大手町のMビルに客を迎えに行ってくれ!」 「お客様ですか?」 「ほうじゃ。おれのチョーお得意さんじゃ! けど、おれはどーしてもその時間に野暮用で迎えに行かれん。じゃけえ、おまえに譲ったるっ!」  優弦は川本のあまりの気迫にこくこくと頷いた。川本はそれでも不満なのか、優弦に噛みつきそうなほどに顔を近づけて、 「ええな、絶対に遅れんな。わかったなっ」 「おおい、ふたりとも喧嘩はすなよぉ」  事務所の窓が開いてノホホンと所長の声がした。喧嘩じゃねえわっ、と肩から手を離した川本に、優弦は迎えに行く客の名前を聞いてみた。 「あー、名前……。名前はナナシさんじゃ」  それだけ言うと川本は、「頼んだで」とさらに念押しをして、自分の車へと乗り込んでしまった。 (やっぱりハンドルを握ると落ち着く)  すっかりタクシー運転手が板についたのだと優弦は苦笑する。今は十九時少し前。あれから休憩中も川本に電話で駄目押しされて、優弦は大手町のMビル前にハザードランプを点滅して車を停めていた。  高くそびえるビルをフロントガラス越しに眺めた。思えば三ヶ月前、ここで優弦は初めて櫻井と出逢った。あのとき、彼は優弦の名前の読みを言い当てて、とても驚いたことを昨日のように思い出す。櫻井はまだ仕事中なのだろうか。あれから元気にしているのだろうか。  ふと、優弦は、また自然と櫻井に逢いたいと願っている自分に苦笑いを追加した。本当にいつまで経っても成長がない。何度、同じことを繰り返し、傷つけば気がつくのだろう。もう誰とも親しくしないほうがいい。きっと自分は母と同じで、知らず知らずの内に妖しく男を誘うのだから。  考えごとをしていたら、ビルの自動ドアが開いた。  オレンジ色の照明が照らすエントランスから数人の人々が出てくる。その内のひとりは大きなスーツケースを引いている。他の人たちは彼の見送りのようだ。挨拶が終わり、スーツケースを引いた男性が優弦の車に近寄ってきた。彼が川本の贔屓の客かもしれない。優弦はトランクを解錠して運転席から車外へと出た。  歩道を照らし始めた街灯の下、近づく男の顔がはっきりとする。優弦は目の前の人物を認めて息が止まった。 「櫻井さん……」  そこにいたのは黒のトレンチコートを身にまとい、春早い夜風に髪を乱されて立つ櫻井だった。

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