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第70話

***  沈黙が車内を重く包み込む。高速道路を順調に走行して、小谷(こたに)サービスエリアまで二キロと標識が出た。このサービスエリアを過ぎると次は空港への出口だ。  Mビルから車に乗り込んだ櫻井は、「広島空港まで」と行き先を告げるとそのまま黙ってしまった。ゆったりと後部座席に体をあずけ、流れる車窓を見ている。その静かな表情から、優弦はとうとうこのときが来たのだとわかってしまった。 (櫻井さんの、広島(ここ)での仕事が終わったんだ……)  チャドや由美たちがいなくなり、近いうちに櫻井も東京へ戻ることは覚悟していた。それに彼がここからいなくなることは、自ら別れを告げた自分にとっては好都合のはずだ。それなのに、その事実にショックを受けている自分がいる。咽喉の奥が詰まり、胸が痛くてたまらない。それ以上に、いまだに想いを残している自分が情けなくて嫌になる。  後ろの櫻井はまったく話さない。でも、ルームミラー越しに自分をじっと見つめる視線はひしひしと感じた。ならばひとこと、言葉をかけてくれてもいいのに、彼は口を開こうとしない。  二人して黙ったまま、小谷サービスエリアを過ぎたところで、急に後ろから「もしもし」と低い声が流れてきた。 「ああどうも。いえ、いいですよ。これから東京に戻ります。二十時四十分発ですね」  どうやら櫻井は仕事相手と話をしているようだ。優弦は思わず耳を澄ませた。 「当初の予定より長くいました。半年ですね。ええ。大変でしたが、でも滞りなく終わりました。チームスタッフが良かったんでしょうね。恵まれました」  優弦の背中で微かに笑った気配がした。 「広島には初めて滞在しましたが、本当に風光明媚で食べ物も美味しくて良いところでした。観光? まあ、こちらは仕事で来てましたからね。でも、最後の二ヶ月くらいはいろいろと行きましたね。……いえ、実は仕事とは別にこちらで仲良くなったひとがいて。ええ、彼はタクシーの運転手でしてね。牡蠣小屋にも連れて行ってくれたし、尾道も案内してもらいました」  櫻井が電話の相手に広島での思い出話をしている。 「ははっ、そうですね。でも、その彼はとても優しい人で、体調を崩して寝込んだときにも助けてもらったんです。広島の人は情に厚い人が多い? 本当にそうですね。とても嬉しかった」 (櫻井さん……、嬉しかったのか……) 「彼は深夜残業で遅くなると迎えに来てくれるんです。えっ? まあ、結構遅くまでやってましたよ。……それで、彼が運転するタクシーの車窓から見える夜の海の風景が素晴らしくてね。尾道や呉もよかったけれど、満月が瀬戸内の島々を照らし出して、静かに波打つ海面に月の光が反射するさまは、まるで映画のワンシーンのようで好きでした。……ええ、できるならばまだここにいたかったのが本音です。すっかり海が身近にある生活が心地好くなった。 ……なるほどおっしゃる通りです。彼は優しいだけじゃない。真面目で丁寧で、そして誰にも礼儀正しく仕事に誇りを持っていた。でも、どこか淋しげなところが気になったんです。そんな彼と一緒だったから、余計にあの海の景色が綺麗に見えたのかもしれない」  櫻井が自分のことを語っている。その言葉とともに優弦も櫻井と過ごした時間を思い出す。今思えば、それはとても短い日々。でも忘れることなどできない日々……。 「……ああ、お見通しですか。ええ、私は彼を愛してました。彼の凛とした立ち振舞いも、その身に漂う儚さも。辛い体験を重ねてもなお、力強く前を向いて歩いていこうとする精神も、すべてがいとおしくて守りたかった。……でも、それは叶わぬ夢になりました」 (櫻井さん……)  フロントガラスに流れる景色の輪郭が少し不鮮明に見える。優弦はぐっ、とハンドルを握って鼻の奥の刺すような痛みに耐えた。  まだ彼の声を聴いていたい。しかし車は無情にも高速道路の料金所を抜けて、やがて現れた空港のターミナルへと進んでいく。

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