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第71話

「ああ、もうすぐ空港に着きますね。はい、……少し待ってください」  櫻井が座席に置いたアタッシュケースから手帳を取り出した。そしてスーツの胸ポケットに挿していた万年筆を手に取ると、 「ええ、はい、来月半ばから? 新規工場のシステム構築ですか。結構急だな、少しゆっくりしようと思っていたのに。……メキシコに三ヶ月、そのあとはアメリカに二年? 長い案件ですね」  どうやら次の仕事の話のようだ。シマノの社長就任は正式に断ったのだろう。櫻井から発せられた遠い異国の名前に優弦の心はざわついた。櫻井は相手の言葉をさらさらと万年筆で手帳に書き取りながら、「三年は日本に戻れないな」と、呟いた。 (三年も……、日本から離れる?) 「ええ、では詳しくはまた。はい、これからよろしくお願いします」  耳元からスマートフォンを離した櫻井とルームミラー越しに目が合った。その瞳の力強さに動揺しながらも、優弦はターミナルビルのタクシー降車場所に車を停めた。  料金を告げる声が細かく震えているのが自分でもわかる。櫻井は数枚の紙幣を財布から取り出すと受け取った優弦に短く、「釣りは要らない」と、言った。  急に目の前に高い壁を造られて優弦は怯んだ。それでも後部座席のドアを開け、トランクルームから荷物を降ろそうと運転席から車外に出ると、すでに櫻井は開けたトランクからスーツケースを取り出していた。 「あ……、すみません……」  櫻井が黙ったまま優弦を見つめている。その視線をひしひしと感じながらもどうしていいかわからない。優弦は制帽のつばの下に隠れるように顎を引いて、櫻井の視線を避けた。  しばらくすると目の前に櫻井の右手が差し出された。はっと顔をあげると、そこには優弦がよく知る櫻井の静かな笑顔があった。 「ありがとう、月見里(やまなし)さん。ここでお別れだ」  優しい声に胸がいっぱいになる。優弦、と呼ばれなかったのは櫻井の中で、もう自分が過去の人間になったからだ。優弦は櫻井に悟られないように下唇を噛んで、手袋を外すとその大きな手に自分の右手を重ねた。  強く右手を握られた。そしてすぐにその手は離れてしまった。右手に残った余韻が痛い。櫻井の温かさと力強さはいつも自分を安心させてくれた。でももう、その温もりには二度と浸れない。それは優弦が手放したもの。自分の弱さが遠ざけてしまったもの――。  櫻井が腕時計で時間を確認して、 「じゃあ、おれはこれで。月見里さん、元気でね」  足音を響かせて、櫻井は振り返ることもなくエレベーターへと姿を消した。優弦はその広い背中が見えなくなるまで見送ると、のろのろと運転席に座り込んだ。  東京行きの最終便の乗客を連れてくるタクシーはもうやって来ない。優弦はその場で営業日報を取り出すと、記録をつけようとした。ところが……。  ぽつ、と紙の上に小さな雫が落ちる。それはぽつぽつと増えていき、記入してある数字が滲んでいく。文字が消えてしまうと慌てて助手席に営業日報のバインダーを放り投げても、目の前のフロントガラスの光景は滲んだままだ。  ふっ、とひとつ息が唇から漏れた。自分は今、泣いている。櫻井と別れるのが辛くて、悲しくて、切なくて……。  そう認めてしまうと涙が止まらなくなった。目元を拭う白い手袋が湿っていく。優弦は制帽を脱ぐとそれに顔を埋めて、嗚咽を漏らした。  どれくらいそうしていただろう。 (駄目だ。ここにいたら、いつまでも気持ちを引きずってしまう)  優弦は顔を覆っていた制帽を助手席に置くと、車を動かそうとルームミラーで後方を確認した。すると、後部座席の中央でなにかがきらりと光を放った。  後ろに振り返り、上半身を延ばして光るそれを拾い上げる。座席に残されていたのは美しい細工が施された見覚えのある万年筆。  この万年筆を綺麗だと言ったときの、櫻井の少し照れた表情が鮮明に脳裏に浮かんだ。 (これは櫻井さんの大切なもの……)  優弦はフロントのデジタル時計を確認すると、エンジンを停めて慌てて車を飛び出した。

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