72 / 78

第72話

 エレベーターやエスカレーターでは間に合わないと、一段飛ばしで階段を駆け上がる。ターミナルビルの二階についたが、そこは国際線の出発ロビーだった。国内線はその奥だ。優弦は広いロビーを万年筆を握りしめて駆けていく。  もしかしたら櫻井はもう搭乗待合室にいるかもしれない。時間は二十時三十分。予定通りなら、すでに最終便への搭乗を終えている頃だ。  それでも優弦は懸命に走った。ちらほらと行き交う人たちや職員が、すれ違う優弦に驚きの視線を投げかけている。どうやら少し搭乗案内が遅れているのか、国内線出発ロビーのチェックインカウンターに並ぶ人たちの中に黒いトレンチコートの背中を見つけた。優弦は咄嗟に、 「さっ、櫻井さん! 櫻井さんっ、待って」  しかし聴こえていないのか、櫻井は振り返ってはくれない。もう一度、「櫻井さん」と声をかけたがやはり反応がない。優弦はその場に立ち止まり、上がる息を抑え込むと、こくりと唾を呑み込んで大きくその名を叫んだ。 「――っ、雅樹さんッ!!」  瞬間、辺りが静寂に包まれた。周囲の人々の視線が自分に突き刺さる。その中に櫻井のものもあることを信じて、優弦は両膝に手をついた。  走ったあとに大きな声を出したからか、なかなか呼吸が元に戻らない。床を見つめて、はあはあと息を整えている優弦の視線の先に、綺麗に磨かれた靴先が飛び込んできた。その靴から恐る恐る顔をあげると、そこには驚きの表情をした櫻井が立っていた。 (雅樹さんに……、万年筆を渡さないと……)  息を調え、ゆっくりと上体を起こす。櫻井に向い、差し出した万年筆の先は細かく震えていた。優弦は、忘れ物です、と言いたかったのに、なぜか唇は別の言葉を紡いだ。 「……雅樹さん、行かないで……ください……」  さらに櫻井の瞳が大きく開かれる。自分でも耳に飛び込んできた台詞が理解できず、撤回しようとする前に頬に温かなものが伝い落ちた。そして、 「好きです。あなたが好き……。だから、どこにも行かないで。お願いです。おれの……そばにいてください……っ」  急に眩しい光が瞳に飛び込んだ。それが天井の照明の灯りだと気づいたときには、優弦は櫻井にきつく抱きしめられていた。  胸をすく爽やかなコロンの香り。そして背中に押し当てられた大きな手のひら。優弦、と囁かれるともう理性は感情に押しやられた。 「ま……、雅樹さん。おれは、おれは……」  カツンと小さな音が足元で響いた。櫻井の大切な万年筆を床に落としてしまった。なのに優弦の手は櫻井の背中を這い、彼をどこにも行かせまいときつくコートを握り締める。  櫻井が少し腕の力を緩めて、優弦の顔を覗き込んだ。たちまち、自分の涙でくしゃくしゃの顔を見られるのが恥ずかしくなる。それでも、次々に溢れる優弦の涙を櫻井は拭うと、 「どこにも行かない。おれは……、その言葉を待っていた」  ふわりと櫻井が優弦を包み込んだ。コート越しでもわかる厚い胸に頬に当たって、優弦の涙が布地に染み込んでいく。  周囲がざわざわと音を取り戻す。東京行きの最終便の搭乗案内が響く中、優弦と櫻井はいつまでも互いの体を離すことはなかった。

ともだちにシェアしよう!