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第4話

 怒りと悲しみの入り混じったような残り香にほうっと深いため息をつき、ふと背後を振り返れば、パノラマのガラス面に蒼い闇が降りてきていた。  チラホラと輝き始める街の光が目に眩しい――  氷川は引き出しのシガレットケースから強めの煙草を選ぶと、深くそれを吸い込み、くゆらしながら眼下の光を眺めていた。 「――気に入ったのはツラ構えと声だけ、ね。さすがにあの言い草はなかったんじゃないのかい?」  少し呆れたようなやわらかな問い掛けに後ろを振り返れば、そこには共同経営者であり親友でもある事務所社長の粟津帝斗がドアにもたれながらこちらを見据えていた。 「ああ、帝斗か――」  氷川はそれだけ言うとまたパノラマの眼下へと視線を戻し、もうひとたび深く煙を吸い込んでは、立ち上った煙が滲みるといったように瞳を細めて見せた。  粟津帝斗は、長い付き合いの中でそんな彼の気持ちのすべてを理解しているというところなのか、格別にはそれ以上の嫌味を口にするでもなく、ただ彼の隣りへと歩を進めると、自らも肩を並べて眼下の景色に目をやった。  この無数のまばゆい灯りの何処かで、今頃あの二人はどの辺りにいるだろうか。きっと怒り任せの早足で、苛立つ紫苑を遼平がなだめるように追い掛けては、寄り添うように歩いているのだろうか。ふとそんな想像がリアルに浮かんでは脳裏をよぎる。  彼らの実家は川崎にあるが、デビュー以来ずっとこのプロダクション内にある部屋をあてがって住まわせてきたので、とりあえずの行く宛てなど思い当たらない。気の強い彼らのことだ、いそいそと実家に戻って泊めてもらうなんていうことだけはプライドが許さないだろうということも薄々分かる。  それとも案外言葉通りの根性などありはしないから、ちょっとすれば現実に疲れて、荷物を取りがてらなどと言ってひょっこり顔を出すかも知れない。そんな想像が次から次へと浮かんでは消えていった。  よくよく思い返してみれば、もっと他に言い方があったのではないだろうかと、どうにもため息がとまらない。  少しは彼らの意向を取り入れて、彼らの望むような曲調のものを提供して、そしてやる気を出させてやることもできなかったわけではない。他の若いミュージシャンにそうしているように、流行りのメロディーに流行りの詞をのせて、ヒットさせるだけが目的ならばいくらでもやりようは承知の上だ。  だが彼らにはどうしてもそう接してやることができなかった。  そうだ、そんな通り一辺倒な型じゃなく、あいつらに歌って欲しいのはもっと深いもの――  深くて切なくて、この心臓がもぎ取られるくらいのあの衝動を歌にのせて、彼らにこそ表現して欲しかったものなのだ。  氷川は短くなった煙草をひねりながら、隣りの帝斗に向かってボソリとつぶやいた。 「なあ帝斗、俺のやってること、ガキだって思うか?」  けど仕方ないんだ。  あいつらを初めて川崎の路上で見つけた時の俺の気持ち、お前だったら分かってくれるだろう?  一瞬、心臓が止まるかと思った。いや、いっそこのまま止まってしまってもいいと、そう思ったほどだ。  これが現実ならば神様ってやつは本当にいるんだって、そんなことまで思ったくらい――  この二十年、俺が自分の中にため込んできたものを、体現できるのはあいつらしかいない。  あいつらにしかできない。  あの顔立ち、あの声、  そう、あの二人に再び巡り会えるだなんて思いもしなかった。

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