22 / 146

第22話

 剛と京が驚いたように話し掛け、だが当の紫月はまるで目の前の男以外は意識にないといったふうで、他の誰の声にも反応する様子がない。それどころか、戸惑う皆を他所に突如狂気のような声を上げたと思ったら、間髪入れずに氷川を目掛けて殴り掛かった。これには剛と京も驚いて、一時その場が騒然となった程だ。 「……っ!? おい、紫月ッ!? 何すんだお前……ッ」 「よさねえか……! おい……!」  狭い部屋の中に埃が舞い立ち、卓上にあった小物が倒れて散乱する。剛と京は側にいた帝斗や倫周を庇うように、 「おい、お前ら、危ねえ……下がってろ……!」  咄嗟に彼らを後方へと避難させた。 「うわぁああーーー! ああーーー!」  当の紫月は今の今までとは打って変わって、気が違ったようにわめきながら氷川に牙をむいている。  意識は朦朧としているはずなのに、身体だけが別次元で無意識に動いてしまうといったふうで、俊敏に暴れ回る。その様はまるで酔っ払いが騒いでいるような感じだった。  攻撃をするというよりも所構わずといった調子で、氷川の全身に体当たりを繰り返す。そうする内に繰り出した拳が氷川の頬を捉え、思い切り殴り飛ばす形となった。  あまりのことに呆然となっていた剛と京も、それにはハッと我に返り、慌てて彼を止めに割って入ろうとした、まさにその時だった。 「手を出すな――」  ピシャリと氷川本人に遮られて、二人は呆然、しばしそのままで硬直してしまった。 「う……ぁああーーーッ!」  それからしばらくの間、まるで気が違ったように紫月は氷川を殴り続けた。幾度も幾度も拳で頬を殴り、次第に唇の端が切れて血が滲み出しても攻撃は止まない。それでも氷川は何の抵抗もしないままで、紫月のするがままにさせていた。  道場育ちの段持ちである彼に好きにさせて尚、大してよろけることもないままに、その場に踏ん張って立ち尽くす。まるで気の済むまで殴らせるとばかりの直立不動で、サンドバックになる氷川の様子に、誰もが硬直状態――。側で見ていた帝斗や倫周は驚きで言葉さえ発せずに、呆然としているのが精一杯、剛と京も同様だった。  そうして紫月はひとしきり暴れ尽くすと、遂には体力の消耗に付いていけなくなったのか、ふらふらと目の前の男に寄り掛かった。そして、一度の反撃をすることもなく、かといって避ける気配も見せなかったこの男を怪訝そうに見上げた。じっと食い入るように見つめ、だがしばらくすると、突如として我に返ったようにハッとなり――、と同時に大きな瞳にはみるみると涙が充満して、今にもあふれそうなまま、硬直してしまった。  まるでここ数日間の虚無の世界からいきなり現実に引き戻されたように、様々な感情が一気にあふれ出しては紫月を襲ったのだ。  最愛の男を失ったという現実が、恐怖感となってみるみると彼を覆い包んだのだろう、全身がガクガクと震え出す。膝が笑い、思わずその場に崩れんとした瞬間だった。 「一之宮――! 分かるか? 俺だ。氷川……だ」  いきなり大きな胸に抱き包まれて、紫月は驚いたように瞳を見開いた。  ふと見上げれば、自らが殴り続けた頬がひどく熱を持ち、腫れていた。抱き締められた瞬間に触れ合ったどこかしこが熱く、視界に入り切らないくらい近くにある唇の端は切れて、ぼんやりと血の赤が目の前で揺れている。顔のところどころに痣の浮き出た蒼黒い痕は、たった今自分自身が付けただろう傷に違いない。それなのにすべてを包み込むような、このあたたかい感情は何だろう。まるですべてを赦し、すべての苦しみを分かち合ってくれるとでもいうような、大いなる安堵感が不思議だった。  乱れた黒髪と(かいな)の匂いは、いつかどこかで知っていたような懐かしさをも思い起こさせる。 ――俺のことが分かるか? 一之宮――  たった短いそのひと言から、彼の云いたかった万感を感じ取った瞬間に、紫月の瞳から大粒の涙がこぼれて落ちた。 「氷……川……? ……ッひ……っ……あ……」 「ああ、そうだ。俺だ、一之宮」  分かってる。お前の気持ちは痛いほど分かってるから――  何も言わずともそんな思いが伝わったのだろうか、氷川に抱き締められたままで、紫月は意識を失ってしまった。ここ数日間の悪夢からやっと解放されたとでもいうように、その腕に縋り付くようにして、ガックリと崩れて落ちた。 ◇    ◇    ◇

ともだちにシェアしよう!