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第28話

 照れ笑いをしながらいつもそんなことを口走っていた遼二の声が、幻のように耳元にこだまする。ふと振り返れば、今でもそこに彼が立っているんじゃないかと、そんな錯覚にとらわれる。それらがすべて幻影だと分かっていても、紫月には少しでも遼二との思い出がこびりついているこの繁華街が愛しくて、懐かしくて、離れ難くてならなかった。  ふらふらと辺りをさまよい、歩き疲れて裏路地に入り、何処ぞの貸店舗の前にしゃがみ込んだ。道を一本隔てた先には賑やかな夜の街の音が充満している。耳慣れたカラオケの、少々音程の外れたような歌声が、そこかしこから流れてくる。そのすぐ脇道では夜間工事の立て看板が煌々と光を放ち、まるで昼間のような空間にドリルの騒音が重なっている。そんな雑多入り混じる音や匂いをいつも一緒に感じていた遼二はもういない。  そう、あいつはもういないんだ――  家にいても、遼二の部屋に行っても、こうして思い出の染みついた街を歩いても、どこにいたって彼がいないという事実を突き付けられるようで堪らなかった。  シャッターの降りた店の戸口で膝を抱えて座り込み、時間を追うごとに増してくる寒さに、より一層肩を丸める。  もう一歩たりとも動きたくはない。立ち上がって、歩いて自宅へ帰る気力もない。いっそこのまま、この寒さがもっともっと厳しくなればいい、そうすればもしかしたらアイツが俺を迎えに来てくれるかも知れない。こんな所で何やってるんだと、懐かしいあの笑顔で俺を覗き込み、そのまま一緒に連れて行ってくれたらどんなにか――!  ぼんやりとそんなことを考え巡らせ、呆然としている紫月の姿を横目に、人々は彼を見なかったことのようにして足早に通り過ぎて行った。冬の夜の裏路地でのこんな光景は珍しくもないのか、誰一人紫月に声を掛けようとする者などいなかった。  どのくらいそうしていたのだろう、寒さも悲しみも麻痺し、ウトウトと眠りが襲ってきたその時だった。ふと、誰かに肩を揺すられる感覚で、紫月はぼんやりと顔を上げた。 ――?  そこには懐っこい笑顔で自分を覗き込んでいる一人の見知らぬ男の姿があった。 「ね、お兄さん! こんなトコでどうしちゃったのよ? そんな薄着してっと風邪引くぜ?」  グっと近付けられた顔のドアップが視界に入り、そこには大きな二重の切れ長で彫りの深い眼差しがにこやかにこちらを見つめていた。その額を覆うようにハラリと頬に掛かった黒髪も酷く印象的で、紫月は思わずハッとしたように瞳を見開いた。  冬の夜の冷気を感じさせる彼の白い吐息からは、微かな煙草の香りがし、嗅ぎ慣れた心地いい匂いが瞬時に心を掻き立てる。  遼二――!?  一瞬そう思った。  だが違う。よくよく目をこらして見れば全くの別人だ。切れ長の形のいい瞳と見事な程の黒髪のせいで、そんなふうに錯覚させられただけだ。第一、服装からしてスーツ姿にコートを羽織ったこの男は、年の頃も若干上といったところだろうか。  驚いたように瞳を丸くしたままで呆然としているこちらの様子を気に掛けるように、男は更ににこやかな笑顔を装いながら、もうひと言を付け加えた。 「あんた、さっきっからずっとここにいんだろ? 俺がさっきここ通った時もいたもんな。かれこれ、あれから一時間くらい経つからさ、気になって声掛けてみたの」  にっこりと白い歯を出しながら親しげに笑ってよこす。その様はまるで、『どうかしたの? 何か困った事情でもあるの?』とばかりにやさしげで、ついついほだされてしまいそうな懐っこさだった。加えてパッと見も遼二と見まごうような顔のつくり、性質だって困っている他人を放っておけない人の良さが滲み出てもいるようで、そんなところも遼二によく似ている。  そんな男を前にして一気に緊張感が解けたのか、紫月は無意識の内にすがるような瞳で彼を見上げていた。 「な、あんた、何かワケ有り? 行くトコ無えんだったら俺ンとこ来るか?」 「え――?」

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