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第29話

「すぐそこに俺の事務所があるんだ。よかったらそこで暖まっていかねえ? 出前で旨え”うどん”でも頼んでやるからさ」 「う……どん……?」 「そ! こんな夜にこんなトコでじっとしてたら寒くて適わねえだろ? それに……腹も減ってんじゃねえの?」  そういえばいつ食事をしたっけ?  朝方、両親と一緒に食卓についたことがぼんやりと記憶の中に浮かんでは消える。そもそも遼二が亡くなって以来このかた、食事どころか、何をして過ごしたのかさえも満足には思い出せないような日々が続いているのだ。それなのにこの男の言った『うどん』という言葉に、何故だか久し振りに腹の辺りがそれを想像して鳴るような気がするから不思議だった。  腹など減っていないのに、何となく温かいうどんに有りついてみたい気がしてならない。  食事などどうだっていいのに、寒さなどどうだっていいのに、何となくこの男に付いて行って暖まりたい気がしてならない。  遼二に似た面差しのこの男がそうさせるのか、気付けば紫月は手を取られるままに立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられるようにして彼の隣を歩いていた。  男はうれしそうにしながら紫月の肩に腕を回し、そして時折ニヤニヤと含み笑いのようなものを浮かべながら歩く。そんな些細な彼の表情に気付く余裕など皆無の紫月は、ただただぼんやりと手を引かれるままに付き従っているといった調子だ。  しばらくすると男の勤め先らしい『事務所』があるという雑居ビルに着いた。  すぐそばに立っている電柱のてっぺんの高さから考えて、三階建てくらいの古びたそのビルをぼんやりと見上げた。パチパチと点いたり消えたりを繰り返す電灯が何ともわびしい気分にさせては、と同時に少し身震いするような北風が頬を撫で、今夜はこんなに寒かったのかと思い知らされる。  早く暖まりたい。何でもいいから今は一刻も早くストーブの前に立ち、温かい茶の一杯でもすすりたい、そんな気分にさせられた。 「俺の事務所、ここの三階なんだ。すぐに茶、沸かすからさ」  またもや懐っこい笑顔を向けられて、紫月は遠慮がちながらもコクリと素直にうなづいてみせた。そうしながらも内心では、ついさっき会ったばかりの見ず知らずの他人に付いてきて、挙句何とも親しげな成り行きに、これでいいのかと躊躇する気持ちが湧き起こる。だが、その直後の男のひと言で、そんなためらいが一瞬で吹き飛んでしまった。 「あ、俺ね。亮治ってんだ、よろしくな?」 ――りょうじ!? 「りょ……うじッ……!?」 「そ! 亮治! あんたは?」  コンクリート造りの狭い階段を登りながら、男がこちらを振り返って親しげに笑う。今の紫月の思考を惑わすにはそれだけで充分だった。  濡羽色の黒髪、ストレートのそれを邪魔そうに掻き上げる指先は、形が良くてすらりと長い。  切れ長の大きな瞳は懐かしささえをも感じさせる。  親しげな口調も親切めいた誘いも、すべてが今は亡き遼二の面影のように感じられて、紫月は何ともいいようのない依頼心を抑えることができなくなっていた。  目の前のこの男は遼二ではない。それは分かっている。けれども今はただ何となくこの男に出会えたことが、救いのように思えてならなかった。  扉を開け、真っ暗闇だった狭い部屋に蛍光灯の灯りがともり――  ストーブに火を入れた独特の匂いを嗅げば、それだけでもう身体の芯まで温まるような気がしていた。ガスレンジのコックをひねる音、インスタントコーヒーの香り、カップを二つ持ちながらコンロの火で煙草を点ける男の仕草をぼんやりと見つめていた。 「あ、適当に座ってて」  勧められたソファは古びた黒革張りで、ところどころが擦り切れていたりする。やはり使い込まれた感じの机には電話とメモ帳、ペンスタンド、それに電卓などがバラバラと散乱している。亮治と名乗ったこの男が、この事務所とやらで何の仕事をしているのか、そんなことは微塵も思い付かぬままで、紫月は目の前の暖かさに寄り掛かろうとしていた。 「とびっきりのうどんを食わしてやるからな? マジ旨えんだよ、ここの出前」  ヤカンの湯をコーヒーカップに注ぎながら”亮治”が携帯を耳元と肩先に挟んで笑う。思わずつられるように口元がゆるみ、知らずの内に身を乗り出していた。 「あの……俺、紫月」 「ん、何――?」 「名前……俺の。えっと、その……俺の名前、紫月っていう……」  消極的ながらもそう口走り――  紫月の母親から、彼がもう二晩も帰ってこないと帝斗のもとへ連絡があったのは、その翌々日の午前中のことだった。

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