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第44話 二十年前、春浅し――
その日以降、紫月は徐々に落ち着きを取り戻していった。頃は新しい年が明けて、白梅の蕾が固い花びらをほころばせ始めた季節――
相変わらずに代わる代わるやって来る親友たちの前ででも、無理をすることなく会話も増えて、わずかだが笑みも戻ってきていた。
やはり氷川の存在は多大なのだと、剛などは心底そう実感していて、それは頼りがいのある反面、少しばかり寂しい気がするのも否めなくて苦笑する。
香港で重体だったという氷川の兄の容体もほぼ快復し、そのお陰で氷川自身も日本に留まれることになったようだった。春はまだまだ遠いだろうが、僅かずつでも穏やかさが戻ってくるような日々に、剛をはじめ、誰しもが安堵の面持ちでいた。
当の氷川は、香港を離れることを承諾してくれた肉親の厚意に報いようと、自らの責務に忙しい日々を送っていた。彼の主な役割は、組織の為の資金作りである。いわば表の顔とも言うべき企業経営だ。
その内容は多方面に渡っていて、ホテルや飲食店の経営から貿易などを軸とした多数の企業を管理運営することだった。無論、粟津財閥トップである帝斗の父親とも親密な付き合いは続いており、そういった意味でも帝斗や倫周らと会う機会も多かった。
そんな多忙の中でも、少しの時間を見つくろっては、氷川は紫月の元を訪ねることも欠かさなかった。紫月もそんな氷川の思いやりを素直に受け止めては、「無理しねえでいいのに」などと言いつつも、彼の訪問をうれしく思っている様子であった。
そんな或る日の午後のこと。まだ北風の冷たい河川敷を、紫月は氷川と共に散歩していた。
空には比較的薄めだが雲が覆い、澄んだ冬晴れとはいかない天気ながらも、時折雲間を縫って差し込む陽射しが早春の気配を告げている。格別には何を話すともなしに、二人は遊歩道から少し外れ、まだ枯れ色の草々の上に並んで腰を下した。
「あのさ、これ……」
紫月は少々照れ臭そうに、腰脇に置いたカバンからギフト用に包装された包みを取り出すと、氷川へとそれを差し出した。
「何だ?」
「うん、何つーか……てめえにはいろいろと世話ンなったし、その……礼って程でもねんだけど」
視線を合わせないままで、けれども色白の頬をほんの少し紅に染めながら包みだけを差し出す。氷川の表情からは、わざわざ礼の品物なんて――という内心が見て取れたのか、
「えっと、剛とか帝斗とか他の奴らにもやったから気にしねえで受け取って」
紫月はそう付け足すと、やはり照れ臭そうにしながら川面の方へと目をやった。
「ほう? なら有難くもらっとくぜ。ここで開けてもいいか?」
「……いいけど。ンな大したモンじゃねえから」
期待しないでくれと言いたげな包みの中身を見た瞬間に、氷川は少々意外だというように瞳を見開いた。そこに現れたのは黒い革製の手帳だったのだ。しかも一見にして割合高級品と分かるようなそれである。高価なものだからというわけではないが、氷川は遠慮なしに思ったことを口にしていた。
「お前、これを皆に配ったのか?」
「いや、違うけど。剛と京には奴らが欲しがってた特注のピックのセット、帝斗と倫周にはシルバーの携帯ストラップにした」
もしかして気に入らなかったかというような顔つきで、紫月が少々不安げに首を傾げたのを見て、氷川はそうじゃないと首を数回横に振った。
「いや、すげえ品のいい手帳だからうれしいが――、丁寧にしてもらって恐縮するって意味だ」
パラパラっと中身をめくり、新しい手帳の匂いに頬をゆるめる。そんな様子に、とりあえず気に入らなかったわけでもなさそうだと安心したような面持ちで、紫月はひょんなことを口にした。
「それさ、前に遼二と一緒に買い物に行った時に見つけたんだ。あいつが……氷川ならこんな手帳とか使っても嫌味なく似合いそうだとかって言ったのを思い出してさ」
「カネが?」
「ん、だからそれにした。きっと遼二もそれを選ぶような気がしたしよ」
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