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第50話

「お気持ちだけでもたいへん有難く存じます」 「いや、そんな……俺……じゃなくてこちらこそ……、その……送ってもらって申し訳ないですし、是非……」  そんなやり取りを面白そうに静観していた氷川だったが、 「――だそうだ。お前らも遠慮なく邪魔さしてもらえ。こいつの家は道場をやっているから、日本古来の珍しいものが見せてもらえるぞ。いい経験ができるんじゃないか? 後ろの車の連中にもそう伝えておけ」  満足そうな笑みまじりのその声音に、配下の男たちも紫月もホッと胸を撫で下ろす。特に紫月の方は思い切り助かったという面持ちで、大袈裟な深呼吸に肩まで揺らしているのが可笑しくて、氷川はまた人知れず口元をゆるめたのだった。  頭上に高速道路をまたいで、駅前に続く大通りに入る。そのカーブで、車窓から後ろを走る車が視界に入ったのか、紫月は思わず感嘆のような声を上げた。 「しっかし、やっぱすげえ世界なんだな……」  まるでヒソヒソ話のようにして隣の紫月が肘を突いてくるのに、氷川は何のことだといったように彼を振り返った。 「後ろに車付いてるって、やっぱりお前の護衛とか? すげーよなー。遼二が知ったらぜってー羨ましがる。香港の映画観ながらさ、いっつもこんな車に乗ってみてえとかって言ってたもん」 「なんだ、カネは香港映画が好きだったのか?」 「そりゃお前がそーゆー世界のヤツだって知ってからだよ。香港の街並みを見てるだけでも、ちっとは氷川の世界が分かる気がするとかって言ってさ」 「ほう、カネがそんなふうに思っててくれたとはな」  リラックスしてうれしそうに笑う。そんな氷川を横目に、何となく二人きりの時とは彼の雰囲気が違うことに気が付いてか、紫月は怪訝そうな上目遣いで隣の男を見やった。 「……やっぱ雰囲気違う」 「何だ――?」 「や、お前。俺らといる時よか、偉そうに見える」 「はあ?」 「これが頭領の貫録ってヤツかな? なんかそーゆー姿、遼二にも見せてやりたかったなぁ……」  半分は冷やかし気味に笑うその様子に、氷川はまたしても瞳を細めた。いつ何時でも最愛の男のことを胸に抱いている彼が微笑ましく思えて、ひどくやさしい気持ちにさせられる。と同時に切なさが過ぎるのもまたしかりだった。 ――大丈夫、あいつもきっと見てるはずだぜ――  その言葉を飲み込みながら氷川は言った。 「どこかで珈琲の豆でも買っていくか。ケーキをご馳走になるんならそのくらいしねえとな」 「え、いーよそんなん。気ィ、遣うなって」 「お前にってわけじゃねえよ。お袋さんたちへの土産だ」 「あ? なにソレ――」  今までの感慨はどこへやら、途端に口を尖らせた様子にも安堵の溜息がこぼれる。こんな表情ができるのだから、やはりかなりのところまで立ち直れているということだろう、氷川はいつもそんな気持ちで紫月を観察するのを欠かさなかった。 「そんなにスネるな。ウチの連中も邪魔さしてもらうんだ。いいじゃねえか、それくらいさせろよ」 「ま、いーや。せっかくなら酸味の少ないヤツ頼むぜ。苦いのはイケるけど酸っぱいのは苦手」 「だろうな? お前、甘いモン好きそうだし」 「……よく知ってんじゃん」 「まあな」  軽く鼻先で笑う氷川に、紫月は負けじと片眉をしかめてみせた。 「お前、やっぱ頭領だよ」 「――どういう意味だ」 「ん、どこそこ偉そう。つーか、他人を丸め込むのも上手けりゃ、納得させんのもプロ級。その上、態度もデケえし!」 「何だそれ。人聞きの悪いこと言うなよ」 「人聞き悪ィって何よ。俺りゃー、これでも褒めてるつもりなんだけどなー」 「それが褒めるって態度なのか?」  阿吽の呼吸がよく噛み合って、詰り合う言葉とは裏腹に存外その会話を楽しんでいるふうな二人の様子は微笑ましい。助手席の男は表情に出さないまでも内心でそう思いながら、珈琲豆を購入する店までの道のりを運転手へと告げた。  その後、紫月の家では氷川たち突然の来客にも大いに喜んで、歓迎した。例のケーキとお茶をふるまい、その後は日本の道場の造りを珍しがっている氷川の配下の男たちの為にと、居合抜きの実演までサービスしてもてなした。彼らはたいへん感激の面持ちで、それをきっかけに何となく打ち解けた雰囲気になっていくのを、誰もが心地よく感じているといったふうだった。と同時に紫月はまた後でこのことを遼二にメールしようなどと思い、一人こっそりと胸を温めてもいたのだった。  お礼の手帳も渡せたことだし、何だかんだと今日は充実した一日だった。  少し伸びてきた早春の日暮れは綺麗な薄桃色で、そんな光景にも春の気配が感じられる。 「今日は楽しかった。いろいろサンキュな!」 「ああ、こっちこそ大勢で押し掛けちまって済まなかった」  次に会うのは剛のライブの日になるだろう。当然のようにそう思って笑顔で手を振り合う二人には、まさかこれが互いにとって心から触れ合える最後の機会であったなどとは、思いもよらなかった。  待ち焦がれる春はすぐそこに確かな足音を運んできている。が、同時に、過ぎてしまう季節を惜しむような寒風がそれを引き留めんと吹きすさぶのもまた事実である。  浅い春が逝こうとしていた。

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