58 / 146

第58話

 だが実のところ、氷川のその励ましのお陰で、紫月が自分自身を取り戻すきっかけを掴んだのは誰しも承知していることだ。当の紫月とて、氷川には深く感謝し、そしておそらくは仲間内の誰よりも頼みにしていたのは間違っていないだろうと思う。剛や京に訊いても同じことを言うだろう。  氷川がそのことに関して何を気に病んでいるのかが分からなかった。だが次の瞬間、今にもあふれそうな大粒の涙を瞳いっぱいに溜めながら彼がこちらを振り返ったのを目にして、帝斗は思わず彼を支えんと一歩を踏み出し、だがすぐにハタとその歩をとめて氷川を見つめた。あまりにも辛辣な彼の表情に、身体が金縛りに遭ったかのように動けなくなってしまったからだ。 「カネを亡くした時は確かに辛かった……けど一之宮がいたから耐えてこられたんだ。俺やお前らや清水に橘、他の誰よりも辛い思いでいるだろうあいつを支えてやらなきゃいけねえって……まるでそれが使命みてえに思えてた。だから俺らがしっかりしなきゃいけねえって思ってきたけど……実際のところ、支えられてたのは俺らの方だったのかも知れない……そんなあいつを亡くして、今……本当にどうしていいのか……分かんねえ……」  がっくりとうなだれた氷川の声は掠れ、まるで絞り出すように(つぶや)かれる一言一言が重くて苦しくて、どうしようもない。 「なあ帝斗、カネを亡くした時のあいつの気持ち、こんなだったんだな……? いや、もっと辛かったのか……」 「……白夜」 「……あいつが傍にいねえってことが……こんなにも辛えなんてよ、思いもしな……った」  擦れて途切れた言葉を風がさらってゆく。  と同時に粉雪の積もり始めた地面にがくりと膝を付き、身体ごと震わせて氷川は言った。 「済まねえ帝斗、今だけ……お前の……」 ――今だけお前の胸を貸してくれないか……!  まるで懇願するようにそう言う氷川の頬には、堪え切れなくなった大粒の涙が滝のように流れて伝っていた。傍にいてくれ、助けてくれといわんばかりに帝斗のコートにしがみ付き、放心したように泣きじゃくり―― 「カネの……代わりになろうなんてつもりはなかった……ただあいつの傍にいるだけでよかったんだ……! あいつと二人でずっとカネのことを忘れねえで、ずっとずっとただ一緒にいるだけでよかった……ずっと傍であいつを……俺は……っ、あいつを、一之宮を……!」  海風の突風が彼の叫びを掻き消し、無情なまでに黒髪を乱し、頬を伝う涙までをも拭い飛ばす勢いで吹き荒れる。叩き付けるような強風に煽られて、舞い散る粉雪が酷な冷たさを突き付けてくる。思わず襟を立てて身震いしたくなる程の寒さの中で、そんなことを気にも留めずに帝斗に縋り付いたまま、氷川は泣き崩れた。嗚咽を隠すことも抑えることもなく、声を張り上げて泣き濡れた。  そんな氷川の姿を間近にしながら、倫周もまた、無意識に涙がこぼれるのをとめられなかった。  無論、紫月を失ったことが悲しいのは言うまでもない。だがそれ以上にこの気丈な男が――そう、例えばどんな困難や苦難に遭っても涙ひとつ見せないだろうこの男が、時に冷たく怖くさえ感じられることもあるくらい鋭さを伴ったこの男が、野生で例えるならば百獣の王のような存在のこの氷川が、まるで子供のように泣きじゃくる姿がこの上なく驚愕で哀れでならなかった。思わず傍に寄って抱き包んでやりたいような気にさせられる程に、今の彼は傷だらけだった。  そんな彼の広い背中を抱き締めてやりながら、自らの頬をも涙で濡らした帝斗が言葉もなく、ただただ(うなず)いていた。  何度も何度も氷川の肩を抱き締め、さすりながら、「うんうん」といったように(うなず)きを繰り返す。まるで『お前の気持ちは全部分かっているよ』というように、そして『僕らも同じ気持ちなんだよ』と言っているように思えて、そんな二人の姿に涙がこぼれてやまなかった。  突風が巻き上げる雪の冷たさを、  頬を叩き付ける風の無情さを、  堪え切れない悲しみの嗚咽を、  この先に続く生涯の中で、二度と――  そう、二度と忘れることはないだろうと――  止め処ない全身の震えを、抑えることも誰かに預けることも儘ならずに、できることはただただ涙を流すことで遣りどころのない気持ちを慰めるのみであった。 ◇    ◇    ◇

ともだちにシェアしよう!