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第65話
誰もいない霧の湖畔に浮かべられた小さなボートの上にいるような感覚に、ブルリと身を震わせた。そんな夢を見ていたというのだろうか、ぼんやりと瞳を開ければ、そこはボートの上ではなく、白いシーツの海の上だった。
ふと部屋を見渡すように視線をやれば、薄蒼色がアールデコの窓辺に広がり、今が早朝なのだろうということだけを瞬時に感じ取った。と同時に昨夜の嫌な記憶が一気にフラッシュバックするように脳裏をざわつかせて、紫苑は飛び跳ねるように身体を起こした。
恐る恐る隣を見やれば、そこに人の気配は無く、本能的にホッと胸を撫で下ろす。
が、次の瞬間には無意識に唯一人の名前を叫んでいた。
「遼平……ッ!?」
ざっと室内を見渡したものの、彼の姿が見当たらないことに焦燥感を覚えて思わずベッドを飛び降りた。
暖房のきいた部屋の絨毯はほんのりと暖かく、素足でも心地がいい。こんな時にある種どうでもいいような事柄が、逐一頭の中で交叉する。逸った気持ちのままに室内をうろつき、大きなソファの上に遼平のジャケットを見つけて、縋るようにそれを手に取った。
「紫苑――? 起きてたのか?」
いきなり後方からそう声を掛けられて、驚いて振り返った先に見慣れた微笑みを確認して、紫苑は胸が締め付けられるような気持ちに陥った。そこにはいつもの照れたような仕草で頭を掻きながら微笑んでいる遼平の姿があって、あまりの安堵感に衝動的にその胸に飛び込んでしまった。
「おいおい……いきなりどーしたよ?」
「……ッカ野郎、どこフラ付いてたんだよ……! 急にいなくなるから捜したじゃねえか!」
「ああ、悪りィ。ちょっと起き抜けの一服っての? ベランダ出てた」
縋り付いた腕は確かに冷たくて、真冬の冷気に当たっていたことを物語っている。遼平の方は意外な程の素直さで自分に縋り付いてくる紫苑の様子に、少々驚きながらも彼の顔を覗き込むように身を屈めて見せた。
「心配させちまったか?」
「……ったりめえだろ! 気が付いたらお前いねえし……」
「そっか、悪かった。なーんかいろいろ有り過ぎてヘンな夢見ちまったっつーか……あんまし眠れなかったからさ」
それで起きて一服をしていたというわけか。寝ている自分を気遣って、わざわざ外へ出て煙草を吸ってきたのだろう彼の思いやりを考えれば、ますます胸が締め付けられるような気がした。
「悪かったよ。お前、よく寝てるみてえだったから起こしちゃ悪りィかなって思ってよ? けどやっぱ半端なく外は寒みィよ」
おどけたようにそう言って、はにかむ彼はいつもの遼平だ。他の誰でもない。
それに安堵すると共に、昨夜の出来事が蘇って、紫苑はおずおずと問い掛けた。
「なあ……昨夜のことだけど……さ」
――あれはお前だったのか?
それとも錯覚か。もしかしたら悪い夢を見ただけなのかも知れない。
だが身体の節々に残る引っ掻かれたような数ヶ所の痕が、夢ではなかったことを告げてもいる。紫苑は恐る恐るといった調子で、隣の遼平を見やった。だがそんな深刻な思いを他所に、当の遼平はあっけらかんとしたような表情で照れ笑いを漏らすと、面食らうようなことを言ってのけた。
「悪りィ! 俺、昨日やっぱいろいろ有り過ぎて疲れてたのかも……。すぐ寝ちまって、その……悪かったな?」
「……悪かったって……何……が?」
「や、せっかくお前がその……誘ってくれたのに、ってーの? ヤんねえままで寝入っちまったし……」
まるで失態だと言わんばかりにバツの悪そうに頭を掻きながら頬を染める彼に、驚きでしばし言葉を失ってしまう。
ではやはりあれは遼平ではなかったということだ。
思い出せ、紫月。
お前も思い出せ。紫月――!
脳裏を巡る見知らぬ男の低い声。いや、知っているような知らないような不思議な感覚の声が追い掛けてくる。
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